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「愛から出発する療育」

 ちょっと、キザな台詞かもしれませんが・・・
私は、療育の出発点は『愛』でなければならないと考えています。
障害のあるなしにかかわらず、人間を育てるのに必要な事は、まず第一に「愛」なのです。

 自閉症は、想像力の欠如とか、目に見えるものしか意味を持たないとか、具体的な世界にしか生きられない。マインド・ブラインドネス、などといろんなことを言われています。
私は正直なところ、これらの話を聞くたびに心が痛みます。確かに、専門家がおっしゃられる以上はそれなりの根拠があり、データがあって言われているのでしょう。事実としてそのような傾向はあるのでしょうが、はたして言い切ってしまっていいものなのでしょうか・・・
障害の特性を理解する事は、その子を支援する際に役立ちます。(できる限り、正確に知っておくべき事です。)でも、あまりにも『特性』ばかりを誇張すると、その事に縛られて、人間を見失ってしまうような・・そんな気がすることもあります。

 例えば、コミュニケーションということ一つをとってみても、「言語で伝わらない場合は、具体物やカードを使えばいい・・」確かにその通りなのですが、本当のところは人と人とのコミュニケーションは、言語だけにたよっている単純なものではありません。目で合図をしたり、身ぶりで表現したり、表情や「あ−あー」という声で表現したり、雰囲気や無言で通じる「勘」のようなものもあります。人間はもてる全ての能力をもちいてコミュニケーションしているのです。
そして、そのコミュニケーションを成立させている最大の要因、原動力は、「その人の為に何かをしてあげたい。」と思う『愛情』なのです。子供となんとか通じ合いたいと真剣に考えるお母さんは、テキストや専門家の手助けがないなかでも、いろんな手段を見つけだされるものなのです。

 また、さまざまな療法を学び、それが生かされるのは療育者に愛情があるからなのです。支援の為のさまざまなツールやアイデアも「愛」から生み出されます。創造は「愛」から出発しているのです。
具体的な成果の上がる方法論は人々の関心を引きます。そして、外見ばかりを真似ようとします。でも、私たちは時々自らをかえりみ、出発点である『愛』を確認しなくてはいけないのではないでしょうか。

「人は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛によって幸福になる。」と聞いた事があります。
この事は、どのような人でも同じだと思います。障害の特性によって変わるものではないのです。やり方は変わっても、人間の本質は変わらないのです。・・・

私は、この事を信じてゆきたいと思っています。

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 最後に、愛について何かいいテキストはないか? と考えましたが、やはり『聖書』に勝るものはないようです。私はクリスチャンではありませんが、アメリカにいた際に少し聖書を齧りました。ちょっと、引用してみます。

「あなたがたはどう思うか。
ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、
むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者の一人が滅びることは、
天にいますあなたがたの父のみこころではない。」

マタイによる福音書 18章12節〜14節

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。」

コリント人への第一の手紙 13章4節〜8節

 福祉の仕事を志す人は特に、「貧しくとも、人の為に何かをしてあげたい。」「困っている人を助けたい。人々の笑顔が見たい。」「人を幸せにする事で、自分も幸せになりたい。」そういった動機があり、そこに生き甲斐を感じておられる事と思います。

人を幸せにする為には、やはり、『愛』から出発しなくてはいけないのです。

2002/8/3


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