Happy are the pure in heart

福祉とは…
(福祉=幸せに生きること)

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 私は、授産施設のメンバーさんから「福祉とはなんですか?」と聞かれた時、
「あなたのお父さん、お母さんはあなたが生まれた時、どのように思ったでしょう?」と問い直します。
そして彼が「きっと、私が幸せに生きてほしいと願ったと思います。」と答えたなら、
「そう、それが『福祉』なんですよ。」と言います。福祉とはそういう暖かいものなんです。

福祉=「自立」でも福祉=「就労」でもない。もちろん、就労し自立することも大切なことなんですけど、親はそんなことを第一には考えていません。それらは、あくまでも幸福を実現する為の一つの手段や過程でしかなく、しかも、実際それらの言葉や考え方が符合するのは、障害者の中でもある程度のスキルや認知力のある限られた人たちのみを対象とした支援でしかないのです。
就労一つとっても、企業が採用するのは、障害者の中でも能力の高い、自社の利潤に繋がる人だけです。(重度の障害を持つ人にとっては、駱駝が針の穴を通るよりも難しそうです。)

本当に親が根本で思っていることは、その子が日々を「幸福に暮らすこと」であり、どんな形であれそのことが一番大切であり、それこそが「福祉」の本当の意味なのです。その福祉のベースがあって、その上での自立や就労なのです。

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「この子は、重い障害を持って生まれてきたけど、なんとかこの世の中で、この子なりに幸せになってほしい。生まれてきて良かったと思える人生であってほしい。」

「身の回りのことも満足にできない、就職することも難しい、おそらく結婚もできないだろうし、子どもも産めない。人にたくさんの迷惑をかけ、嫌われるかもしれない。」「それでも、この子は人として生まれてきたのだから、健康で、楽しく日々を過ごし、この子なりの幸せな人生を歩んで行ってほしい。社会がこの子を受け入れて、守っていってほしい。」

「もし、社会がこの子を受け入れようとせず、幸せな人生を歩めないとするなら、この子自身に解決する能力がないのだから、自分(親)が死ぬ時にこの子も一緒につれてゆこう。」そう思いたくなるのが親なのです。

「将来」とか「人生」といった言葉さえ理解できていないこの子たちにとっては、「幸せ」とは遠い未来にあって今を我慢することではなく、今日、人々に愛され、一日が楽しく、健康で、有意義に過ごせることであり、その毎日が続いてゆくということです。
「幸せな毎日の積み重ねが、この子の幸せな一生なのです。」

パールバックは「幸福こそが、この子にとって全てなのです。」と言われました、その通りなのです。それが『福祉』です。

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 「福祉」が、福祉サービスとして制度化し、具体化するには、障害程度区分により自立度を測ったり、就労支援という「かたち」で支援した方が、合理的で結果を出しやすく、管理しやすくなります。
漠然とした「幸せ」を求めるより、数字として表せる能力を競い合ったり、「これをした、あれをした」という記録に残る行為をした方が、施設の実績になるのです。
しかし、時としてその「かたち」にとらわれるあまりに、本質を見失い、「福祉の心」から外れてしまうようになることを私は恐れています。

障害者は無言であることが多いです。「面談」をして本人の同意で決めましたと言っても、カウンセラーの話術一つでどこへでも誘導されるものです。(支援する人、される人の力関係があるのです)いつの間にか施設の都合のいいようにされ、本人の本当のNEEDSからは遠く離れてしまい、別の人生を歩んでいるかもしれません。本人には先が読めないのです。

福祉の職員は「かたち」の上では、制度に従って所定のサービスを行いますが、くれぐれも法律や制度の奴隷になってはなりません。福祉の心をもって「人間」として接しなくてはならないのです。
それは、制度や法律やあらゆる決まりごとよりも、はるかに大きなものなのです。福祉職員としての自分の判断の基準がどこにあるのか、自分が本当の福祉を行っているのかを、時折、確認して頂ければと思います。

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 自立支援法ができて「自立」ということにやかましくなりました。
自立の度合いをはかり、それに応じた支援を行い、「自己選択」「自己責任」が強調されます。
本当に自立していて、自己実現能力のある人にはいい言葉ですが、そうでない人にとっては、ちょっと冷たい言葉に感じるかもしれません。

人間というのはけっこう人任せなことが多いものです。健常者であっても、複雑な国際情勢や政治・経済の流れ、詳細な法律に関してなど、手に負えないことや無関心なことも多いようです。自分が考えても分からないし、やるべき人がやってくれると思っています。
障害者にとっても同じで、できないこと、分からないことは、信じてゆだねるしかないのです。
願わくは、支援して下さる人が良心的ないい人であって、本当に自分に必要なこと(障害者は自分で自分に必要なことが分からないこともある)をして下さり、幸福な生活へと導いて下さることを祈るだけです。

障害者自身は「自立」という言葉を、ありがたく思っていない場合もあるかもしれません。だって、分からないものは分からないし、できないものはできません。誰かに決めて頂いたり、無責任だと思われても人に任せるしかなく、その日一日が楽しければいいということもあるのです。問題は支援する人が、どれだけその人の本当の幸せを考え、実行しているかということです。
信じれる人や社会であれば、「自立」を強調せずとも、安心して委ねて生きてゆけるのです。それが本当の福祉社会です。

もちろん、できることは自分でやった方がいいですが、できないことに関しては信じて委ねる。それでも安心していられる、幸せになれるというのが良い社会だと思うのです。

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 自立というのは、基準があいまいで、相対的なものでしかありません。
支援者が、ある人に対し「自立ができていない!」「そんなことでどうするのですか!」と、熱心に指導していても、一方では、能力的に遥かにその人より劣っている、自立できていない人がたくさんおられるわけです。では、自立できてない人は幸せになる資格がないのでしょうか? 言葉を持たない人、排泄や身の回りのこともできない人、一人で外出ができない人。自分で選択したり、判断することが難しい人もいます。その人たちはそれでも、一生懸命「幸せに生きたい」と思い努力しているのです。願いは同じなのです。人間である以上、幸せに生きていたいのは当然です。福祉がスキルを競い合うだけの能力主義に陥ったなら、本来の福祉の意味と役割を失ってしまいます。「自立」とは魅力的な言葉ではありますが、自立させることが福祉ではありません。

人は人である以上「幸せに生きる」ことを願っているのです。それを支援することが福祉の本当の役割なんです。愛がなければ福祉ではないのです。

2006/8/12

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