パール・バックの生涯
パール・バックについて・・・ 1892年6月26日、パール・バックはアメリカ、ウエスト・バージニア州のヒルズボロで生まれました。両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたのですが、母は出産のため一時里帰りして娘のパールを生んだのです。その後、一家は再び中国へ渡り、パール・バックはその人生の半分を中国において過ごしています。 パール・バックは『土の家』3部作(「大地」「息子たち」「分裂せる家」)と『霊肉の書』といわれるご自身の父母を描いた自伝的作品「闘う天使」「母の肖像」、これらの作品によりアメリカの女流作家として初めてノーベル文学賞に輝きました。その中でも特に「大地」は爆発的なベスト・セラーとなり、世界30ヵ国語以上に翻訳され、ピューリッツァー賞を授与されるにいたりました。 骨太で逞しく、なおかつ繊細な、彼女の作風の背景には御両親の信仰と、中国という大陸がもつ力強さと生命力、東洋の伝統的精神などがあげられます。 「大地」には主人公、王龍(ワンロン)の娘として一人の白痴の娘があらわれてきます。娘は常に家族の悩みの種になり、足手纏いになりますが、しかしその母、阿蘭(アーラン)や王龍、そして梨花(リーホウ)はつねに娘のそばに寄り添い、暖かく見守ってゆきます。激動の時代を描きながらも、この娘の存在だけは変わることがなく、読者に慰めと安らぎを与えます。 「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版されました。 40年代に入ってなおも彼女の執筆活動は続きますが、その重点は徐々に社会活動へと移っていったようです。西側諸国の横暴をなくし、東洋との公平な交流をはたそうという目的で、1941年「東西協会」を設立。またアメリカの軍人が駐留先のアジアで置き捨てた混血児たちを養子・養女として引き取り、立派な国際人に育てるために、1948年「ウェルカム・ハウス」を開設されました。そこには常時30人〜50人ほどの混血児たちが共同生活していたそうです。ノーベル賞で得た賞金や、原稿料や本の印税など、ほとんどのお金はそこにつぎこまれました。 彼女自身の本当の子供はキャロル一人しかいません。しかし彼女はキャロルに対するのと同じ愛を、他の子供たちと人類全体に向けたのです。 パール・バックは宣教師であり、ノーベル賞作家であり、人類愛を説く平和運動家でもありました。でもその彼女の人生は、障害をもつ一人の娘の誕生から始まったのです。 パール・バックは言う。「世の親たちよ、恥じることはありません。絶望してはなりません。この子たちは特別な目的をもっているのです。・・・頭をあげて、示された道を歩きなさい。」 彼女自身もまた、示された道を歩んでいったのです。 2001/2/18 .. |