最後のセーフティネット

人を頼るということは、意外と難しい。
多くの人は、自分が中心で、自分がやっていると思っている(自分がやろうとする)、だから人を頼れない。

「親亡き後」に備えて、何を準備したらいいかとか迷い、お金とか、契約に頼ったりしようとする。
それも大切だが、それでもやっぱり不安である。

でもこんな風に考えてみてはどうだろう。
人は単なる「器」であって、本当は私の中にいる神が愛して下さっているのであり、仏さまの慈悲がそうして下さっているのだと思うのです。

自分が、という「我」が強いと、自分がいなくなったらどうなるの・・・と心配になる。
でも、命を与えたのも、愛や慈悲を施したのも、神であり仏であるとするならば、きっと神仏がこの子を愛し続けて下さるだろう、と思えるのではないか。

元々、自分ではなかったと思うのです。人を生かし、幸せを与えているのは「愛」なのです。
その愛は神様から来たものです。(人を生かしているのは神様なのです)

神は、私だけに働いているのではありません。
本人は自覚していなくても、みんなに働いているのです。だからどんな人にだって良心(仏性)があります。そして、神様から遣わされた人なら、きっと愛をもって接してくださるに違いない。そう思って、最後は神様と仏さまにゆだねればいいのです。

今までだって、自分一人でやってきたのではない。多くの人たちの愛情のネットワークがあったから生きて来られたのです。この子は多くの人々に支えられている。神が働いているから、「救い」のネットワークができるのです。みんなが助けてくれるのです。私はただ「報恩感謝」すればいいのです。

浄土真宗には、念仏を唱えるのは阿弥陀様のおかげ、信仰をもつのも阿弥陀様のおかげ。
すべては他力であり、私たちはただ感謝するだけである、という教えがあります。

そして先立てば、私は見守っている側に立ちます。
導かれるように祈り、もし子供が辛い思いをしていたら、思いっきり悲しんであげればいい。
悲しみもまた愛であり、悲しみは神を動かし、人を動かすでしょう。
神様は、全てをお見通しです。
神様の守り、「仏縁」による繋がりは、最後のセーフティネットになるでしょう。

自分を信じることができるのは、自分が偉いからではない(自分には限界がある)、自分の中に宿る神の愛が無限であるからだ。そして人を信じるのも、その人にもきっと神様が働いておられると信じるからです。神が愛として宿って下さっているから、信じることができるのです。

私は、神を信じ、愛を信じて乗り越えてゆこうと思うのです。

○ 宗教の垣根

宗教は大切な役割を果たします。
教会やお寺さんはなるべく敷居を低くし、壁や垣根は取り払っていただきたい。誰に対しても開かれた宗教であってほしい。

人間の「我」の強さとゆうのは、人を救うはずの宗教においてさえ現れやすい。
神が与えた神の教えなのに、自分の教えしてしまう。神が愛した神の愛なのに、自分の愛のように錯覚してしまう。何でも頭に「自分」をつけたがる。(自分たちの・・・と言う風に)
宗教の対立は、人間側の解釈の違いで生じたことである。
本当の神様や仏さまは、敵をも愛するほど、もっと寛容で柔和、心の広いお方なのです。
親なのですからすべてを包み込むはずです。

もっと根っ子を見つめたらいいのに・・・そう思います。

多少は方法論が異なっていても、根っ子がどこにあるのかということで繋がればいい。
ことの本質や人として目指している方向が同じであれば共に働けるはずです。

私は、宗教に対して垣根をもうけたくない。「いいな」と感じる所は何処へでも行く。年末に浄土真宗の「報恩講」に参加したり、クリスマスにカトリック教会のミサに参加したり、観音さまの巡礼も行うし、写経をしたり念仏を唱えたりもする。聖書を読むしお経も読む。仏教の法話やキリスト教の説教も気にすることなく聞く。
本当の神様は、つまらないことに囚われたり、喧嘩をしたりしない。「もっと深く考えなさい、根っ子を見つめなさい」と言うだろう。

○ 障害者の親の立場

障害者の親にとっては、いつかは子供を他者に委ねなくてはならなくなる。
自分は浄土真宗だが、支援者はクリスチャンである。宗旨が違うので思いが通じない、では困るのである。相手が異なる宗教であっても、祈りをもって通じ合いたいのである。どんな人とも手を携えてゆきたい。

自分を基準として宗教を考えているのではなく、子供を基準にして宗教をとらえているので、どんな人が支援者になったとしても応援できるようにしておきたいのです。
そもそも、重度の障害を持つ私の子供は、言葉はわからないし、宗教の意味も分からない。易行といわれる念仏すら唱えることができない。聖歌を歌うこともないし神という言葉すら知らない。ただ、愛されればニコニコしているというだけです。

だから私は特定の宗教・宗派には固執しない。教会にもお寺にも自由に行き来します。

○ 最後のセーフティネット

「親なきあと相談室」がお寺と教会に着目したのは、すばらしいアイデアだなと思います。

お寺さんは、地域に密着しているし、「仏縁」による繋がりによって守られ、この子が亡くなる最後まで見届け、供養までしてくださいます。
お寺の住職さんは世襲制の場合が多く、代が変わっても「仏縁」は引き継がれてゆきます。(教会は、人事によって牧師さんが変わることがあるようですが)

宗教は表面的なものではなく、心に働きかけるものだから、最後のセーフティネットになりえる。
「心のつながり」が人を守るのです。生活保護のお金だけがセーフティネットではないのです。

親の望みはまず、子供のことを知ってほしい、その存在を憶えておいてほしいということです。
子供のことを知っておいていただければ、後はその人の「心」を通じて神が働き、しかるべき支援へと導いていただけるでしょう。

日本の仏教は、葬式仏教から「福祉仏教」へと進化しつつあると聞きます。素晴らしいことです。
地域に密着し、フットワークは軽く、苦しみ・悲しみに寄り添う仏教、社会の役に立つ仏教、最後まで見届ける仏教になってほしいです。
キリスト教も、信徒のことを「兄弟姉妹」と呼ぶのですから、家族のような繋がりがあるのでしょう。その繋がりがセーフティネットです。

そして、最後にこの子が亡くなった時に弔い、神と仏さま、両親のもとへと送り届けてほしい、ということです。

「仏縁」と言うのは、相手の中に仏さまを見るということです。
仏さまの慈悲(私)と慈悲(あなた)による繋がりを言うのです。お互いに仏さまを宿しているという、繋がり、信頼感があるのです。仏さまと仏さまの縁だから「仏縁」なのです。

世の中は、お金や法律だけで動いているのではありません、施設や専門家は福祉を「仕事」として扱っています。でもそれだけでは救いきれない人たちがいるのです。私たちが最後に願いをかけているのは「心」です。心のつながり、その心に宿る愛と慈悲がこの子たちを救ってくださると信じているのです。

神様の愛(仏縁)による繋がりが、最後のセーフティネットなのです。

 聖書の中で、イエスは次のように教えます。

「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」
マタイによる福音書 18章12節〜14節

ユダヤ教では安息日に仕事をしてはならないという掟がある。
イエスを陥れようとする人たちはイエスに対し、
「安息日に人を癒しても、さしつかえないのか」と尋ねた。
イエスは彼らに言われた。
「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ち込んだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日によいことをするのは、正しいことである。」
そしてイエスは、片手の萎えている人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その手を癒された。
マタイによる福音書 12章9節〜13節

イエスは、決まり事以上に、心で動く人であった。

2025.1.21






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