真理はつながってゆく

いろんな話しを突き詰めてゆくと、同じような景色が見えてくるという話し。

今から25年くらい前の話しから始めましょう。
私は、C.W.ニコルさんや「泥ガメ先生」高橋延清先生が好きで、森の中での仕事にあこがれていました。「森林大学」という市民講座で学び(15期生)、森林ボランティアに参加したり、インストラクター(森の案内人)になりたいと思ったりしました。
森林インストラクターには難しい試験があり、受験に向けた養成講座がありました。たくさんの木の名前を憶えたり、林業について学んだり、レクリエーションのやり方をおぼえたりしなくてはいけないのですが、ある日、講義の途中で、先輩インストラクターの講師の方から、「森林の生態系を理解し、それを説明できるようになったなら、インストラクターは合格です」と言われました。一番大事な講義のミソは、生命のつながりである「森林生態系」にあるということらしい。難しい木の名前はほとんど忘れてしまいましたが、そのことだけは憶えています。

私は、子供が重度の障害(自閉症)を持って生まれて来たので、同時に福祉の勉強と仕事をするようになりました。障害者の支援を行うようになると、療育や栄養療法にも関心を持つようになり、勉強していると、パール・バックや神谷美恵子さんの本との出会いがありました。
パール・バックは、代表作の小説『大地』にも見られるとおり、障害児の母であり、土を愛してやまないクリスチャンです。神谷美恵子さんも、クリスチャンで長島「愛生園」で精神科医としてハンセン病の治療にあたり、『生きがい』という本を書きました。「自然こそ人を生み出した母胎であり、いついかなる時でも傷ついている人を迎え、慰め、癒すものであった。」と記されています。

自然を愛するナチュラリストの話をすると、必ず出てくるのが、『センス・オブ・ワンダー』の著者、レイチェル・カーソンです。人は自然の一部である」ということを教え、著書『沈黙の春』では、DDTなどの農薬と化学物質の危険性を警告されました。人と自然の繋がりを深く洞察されています。

健康な食が健康な体を育む、自然の中での活動が人を生き生きとさせるという理由から、私も福祉と共に農業に取り組むようになりました。(農福連携)
ささやかながら、準農家の資格を取り、小さな農園をつくり、障害者を招待して、農作業や収穫を共に楽しんだりしました。今はウイークエンド・ファーマー(週末農家)です。

最初は、見様見まねで、無農薬の有機栽培をはじめました。
本で学んでいるうちに、有機栽培とは単に農薬を使わないということではなく、有機の「機」は“仕組み”という意味で、生命のしくみを有する栽培が有機栽培だということでした。
それから、より自然に近い農業を求めてゆくと、自然農法に行きつくようになりました。
農薬を使わない「奇跡のリンゴ」で有名な木村秋則さんは「自然栽培」を提唱され、不耕起で、無肥料無農薬、草を生やして栽培する。そのやり方を「自然栽培は、生態系栽培である」とおっしゃいます。森林の時と同じように生態系という言葉が出てきましたね。「自然農」を提唱されている川口由一さんも、「自然の営みに寄り添い、従い任せる」ことが大切と言われます。

一方、栄養療法について学んでゆくと、オーソモレキュラー療法(バイオメディカル)や分子栄養学が浮上してきます。栄養について、DNAが求める分子レベルの材料(栄養素)を補給するという考えです。人間にとって本当に必要な物は何か、生命のしくみから考えてゆきます。
健康な野菜は、豊富な微生物が棲息する健康な土から生まれ育つ。(微生物と植物の根との連携が大切)野菜作りは土づくりから人の健康も、体内の生態系、体内の土づくり、すなわち多様な腸内細菌を育み、腸内環境を整えることから始まる。健康は「おなか畑」の土づくり(腸内環境の改善)から始まるということです。

自然と人の健康は見事に繋がっています。
人は元々自然の一部なのだから、当然のことなのだろうけど。

そして、人の体の中には、人の細胞の数よりも多く微生物(細菌)が棲みついています。共生し助け合っているのです。何十億年と共に生きてきた仲間です。ほとんど同化しています。人間は、生命の集合体であり、私の思いは、実は私一人の思いではなくみんな(微生物を含むすべての生き物)の思いであり、私が勝手に私一人の思いだと思い込んでいるだけなのかもしれません。空間的にも歴史的にも(時間軸の中でも)私は一人ではないのです。体だけでなく精神においても、多様性と調和、バランスが大切なのです。

分子栄養学を学んでいくと、その元となる「分子生物学」に行きつきます。
日本で一番有名な生物学者は、福岡伸一博士ですが、その本に書かれている内容はとても興味深く、『生物と無生物のあいだ』という本はミステリー小説のようで本当に面白かった。
福岡ハカセといえば「動的平衡」なのだが、端的に説明すると、機械的な生命論は今では通用せず、生命は「流れ」であり、分解と合成を繰り返しながらバランスを保っているという。
鴨長明の方丈記にある「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、生命のありかたとよく似ている。日本人の生命観なのだそうです。

自然界は闘っているように見えるが(実際そういう場面もありますが)、より深く見つめて考えると、全てはつながっていて協力関係にあり、移り変わり、循環しながら全体としての生命を維持し、進化し続けている。「共生」こそが生き残るための方策なのです。

循環する生命のしくみの中で、生き物の特質は「利他的である」ということ。だから生命は続き(つながり)、維持されるのである。人間以外のすべての生き物は利他的であると言われます。
共生するための条件は利他的であるということ。利他的であるならば、どこに行っても大丈夫。生きる道が開ける。(自分のことしか考えないものは、孤立し、淘汰され、消えてゆく)
喜びも、利他の世界から生まれてくる。他者から認められ、人の喜びが自分の喜びになる。共に生きる喜びがある。

話しは少し変わりますが、「利他」という言葉ですぐに思い出すのは、故 稲盛和夫さんです。稲盛さんは、京セラの創始者であり、KDDIJAL(日本航空)の再生に携わった方です。この方の教えも、根本は「利他」という考えに貫かれています。人間は利他である時に、もっともその力を発揮し、一番の輝きを見せるものなのかもしれません。

死生観について、福岡ハカセはこう語ります。
「生命にとって死というのは、最大の利他的な行為なんです。」
「必ず誰か他の生命に手渡しながら進化を続けてきました。そういう意味では、死というのは悲しいものでも、恐れることでもなく、生命38億年の大きな流れに自分も参加しているという、そういう行為だという風に感じます。」
人も全ての生き物も、自らを捧げきって、生命のバトンを渡してゆきます。
生き物はすべて、本質的には「愛」なのです。そして私たちはどこかで生き続けているのです。

話しは、どんどん繋がっていきます。
自然、生命、人の生き方や死生観についてまで・・・

そして、結論として、おぼろげながら、宇宙の本質(神と呼んでもいい)が「愛」であるということが、思われてなりません。だから、私たちには希望があり、信じて前に進むのです。

2023.3.27