神と仏と人間

〜人と愛と永遠についての話し〜

みなさんは神様を信じますか?

日本では、今時「本気で神様を信じている」なんて言うと、若い人から「まさか!」、そんな非科学的で非現実的なこと「ありえない!」と反論されるかもしれません。神とは人間の心の弱さが築き上げた幻想であり、迷信であると思われている人の方が多いかもしれません。でも、世界ではやはり神様を信じている人の方が断然多く、何らかの宗教を持っていないと人として信用されないとさえ言われます。

慌ただしい日常に身を置くと目の前のことに追われ、つい忘れてしまうことが多いですが、この宇宙や地球が存在し、人や自然界が生きているということは不思議なことなのです。これが何もないところから偶然に生じて来たものであると考えることの方がよほど非科学的であり、逆にありえないことだと思うのです。神の働きを感じざるを得ません。
この美しい自然が偶然の産物でしょうか? 自然の背後に美を生みだしている愛を感じませんか。

なぜ、私という存在があり、生きることにはどういう意味があるのでしょう?
自分で自分を生んだわけではないので(結果的に気がついたら存在していた)、自分を存在せしめた神にその理由を聞かなければ、自分の本当の存在の理由はわかりません。
この世で起こる様々な出来事にはどういう意味があり、私たちはどう生きてゆけばいいのでしょう。
今日はそんなことを考えてみたいと思います。

私たちは、神様の愛をあらわそうとしています。
そのためにはまず、神を知らなくてはなりません。出発点である「存在」について確かなものとする必要があります。では、神とはいかなる存在で、どのように働いているのでしょう。そこから話をはじめてゆきましょう。

神の認識

私は神様の姿を見たことも、肉声を聴いたことも一度もありません。ただ心の中に、想いが湧き上がってきたり、言葉が湧き上がってきたりすることはあります。そこに神様を感じるのです。神は霊として働かれます。自分にはない思いや言葉が湧いてくるのです。そして、その如くに愛そうとする時、自分にはない力が湧いてきます。

目に映るものが輝いて見えたり、素晴らしい出会いを体験することもあります。小さな草花に励まされたりすることもあります。神はあらゆるものを通じて働かれます。試練に合うことがあっても、より大きな答えに導かれてゆきます。(そこには神様の大いなる計らいがあるのです)そんな時、神様は生きて働いておられるのだと思います。

私は、髭のおじいさんのような神様を信じているのではなく、単に自然の営みを神様として見ているのでもなく、天上で絶対者として威張っている神様を信じているのでもありません。内生する神。私の内に在って働く、「愛」としての神様を信じているのです。

神と仏

「神と仏は異なる」これが、仏教とキリスト教の大きな溝となっています。
仏とは神ではなく覚者であり、あくまでも悟りを得た人間であると言われます。だから仏教はある意味で人間信仰ということもできる。しかし、仏教も人の中に仏性を感じ、「空」の中に大いなる生命を見いだしているのです。

この疑問は、「イエスは神か人か」とゆう論争とよく似ています。
イエスは神の子として生まれ(神と同格、愛の対象として存在)、神の形として創造された、神の愛の顕われであるアダムと同じなのです。人は本来、みな神の子たるべきものだったのです。神を宿し、神と一体であるということから、イエスの姿は神の姿でもあった。イエスは自身を指して、「我を見しものは、神を見しものである」と言ったのです。
だから、イエスは人かと言われれば「はい」であり(堕落して穢れた人間とは異なるが)、イエスは神かと言われれば(ご自身ではなかったとしても)それも「はい」なのです。

イエスは神を宿し、仏陀は大いなる生命に通じる仏性を備えているとしたならば、形や個性は違うかもしれないけれど、究極の信仰している対象は同じであるということができる。これが私の神と仏、キリスト教と仏教に対する見方です。

そのイエスの宿す神、仏陀が通じている大いなる生命の本質は何であるかと問われると、その答えは、言葉で表現するのは難しいけれども、「愛」であるとゆうことになる。その愛が悲しみに触れた時、慈悲の心が生じる。「慈悲」もまた愛なのです。

この「愛」は、人間が創った言葉による愛(人の思いをあらわした愛)ではなく、神の言葉としての愛であり、神の有する愛のことを言っている。人から生じた愛は人によってその次元や質が異なる。エロスも自己中心的な渇愛も愛とされる。だから仏教は愛と言う言葉をあまり好まない。言葉とゆうのは誤解を生みやすいものなのです。しかし、本当の愛、真実な愛は、いかなる宗教の垣根をも超えて貴いものであり、神ご自身を表現するにふさわしい言葉なのです。いつまでも変わらないものであるがゆえに、永遠が約束されているのです。

神の働き

動物には宗教がない。自然の摂理に従順ではあるが、神に通じる霊性は備えていない。
人間がもし神を認識できるとするならば、それは言葉や能力、頭脳によるものではなく、神と同じ霊性を備えているからだ。愛であればこそ愛が分かるのである。神は愛のパートナーとして人間を造られた。人の中には愛が育ちえる。だから神に通じ、神の本質(愛)を宿しえるのである。自分の中にないものを理解することなどできないのだから。

神は人の心の奥から働きかける。
神と一つになる時、人は「愛」となる。神の顕現である。(神の子であると言うにふさわしい)
人間は神の愛のカタチ、愛の顕われである。人間らしく生きるとは、愛に生きるということなのだ。

神は霊である。神はすべての人の心の中に働きかけている。心の奥から湧き上がる思いがそうである。人々を信じる(信じようとする)理由はここにある。神を信じるがゆえに、人を信じることができる。(人間不信に陥ったなら、そう考えるべき)
たとえ相手が信仰をもたぬ人であっても、本人が気づいていなかったとしても、神はその人(自分以外の人)にも働いている。だから、どんな人の中にも愛がある。人の中に宿る神の思い(愛)が強くなりますようにと祈るだけだ。

神を信じるものは、自分を信じ、人をも信じ得るだろう。人と話しをする時は、その人の中にある一番清らかな部分(神)に語り掛けるように話せばいい。人の核心に、神と愛があるならば、どんな人とも通じ合うことができるはずである。

私はすべてを神に託し、愛にゆだねてこの世を去ろうと思う。(これは親亡き後の話し)
愛を信じてゆこう。人を生かし、人に幸せをもたらすのは愛のみである。

神様は全ての人の中で、愛として働いておられるのです。
人は「器」にしか過ぎない。全ての人は神を宿す可能性がある。だから祈って育ててゆく。

永遠について

「永遠」なるものを求めようとするならば、神を求めざるを得ない。
一時的な幸せでいいのなら簡単である。自己満足でいいのだから、好き勝手に生きればいい。どうせみな消えてなくなるのだから・・・無責任であってもいい。
しかし、「永遠」を求めるならば、真実でなければならない。変わらないものでなければならない。そんな幸せを得ようとするならば、神と出会い、神の愛と一つになるしかない。自分にないもの、自分にはできないことだからである。

生きている間だけのことならば、神など必要ないし、その人の価値観に基づいて自分の思うように生きればいい。自分の夢を叶える「自己実現」を人生の目標とすればいいのである。
自分のやりたいことができて、なりたい自分になれた、それが幸せであると多くの人は言う。「自分を信じなさい」と言う。自分主義である。一見それで都合よく、うまくいくように思われる。しかし、それは自分しか(自分の近くのものしか)見ていないからである。世界には悲しみが多い。格差があり、戦争があり、殺し合い奪い合っている。自分を基準としていては平和は訪れない。「ほんとうの幸せ」には至らない。

人生には思いもよらぬことが起こりえる。自分の力ではどうすることもできない。そうなると嘆くしかない。不幸になりたくて不幸になる人なんていない。避けられなかったのである。

何かが違うように思う。それでは納得できない、人はそのようにはできていない。そう感じる人もいる。宇宙には意志があり、愛があり、永遠を求めている。人は「器」であり、どこに向かうかはそこに何を宿すかにかかっている。
愛が必要である。愛が真実ならそれは永遠である。「永遠」というものはあるのである。人は永遠にかかわる存在なのである。

「諸行無常」、移り行くこの世界において、変わらないものを求めようとするならば、それは愛しかない。永遠なる存在である神が「愛」であるとするならば、その愛と一つになるということが、唯一永遠に生きる道なのです。

イエスは十字架にかかる前、ゲッセマネで祈られた時に、「私の思いではなく、御心のままになさってください」と言われた。(マタイによる福音書26章39節) 十字架を背負うということは、人類の罪の重荷を身代わりに背負うという意味であった。イエスは、神を宿し、愛に生きる道を選んだのである。

愛のカタチ

創世記127節「神は自分のかたちに人を創造された。」
“人は神の形である”と聖書にはそう書いてある。神は愛である。ということは、人は愛のカタチとなる(愛を証しする)存在なのだとも言える。愛によって幸せをもたらすべき存在なのです。

神は想いの中の愛だけではなく、実体をともなった愛を望まれたのです。だから人を創造された。人と共に愛を体験したかったのです。愛に“カタチ”を与えたかった。“カタチ”がなければ思い描くことすらできない。ストーリーは始まらないのです。そして体(実体)がなければ実感することができない。

心の中に湧き上がってくるもの、「愛」によって命が与えられた。
生命よりも先にあるものがあった。愛が先である。だから、最後に残るのも愛である。愛が残ればそれでいいのである。愛から全ては生み出される。愛はすべてを含有しているので、愛が永遠ならば生命も永遠であることに等しいのです。神と一つになり、永遠に生きるとはそういうことである。

愛のもとであなたが感じていることは神の心であり、一人ではなく全てがあるのです。私たちはもともと神の心の中に生きているのです。

私というのは「器」であり、神は愛を“カタチ”として表わすために、私の心をもちいたのです。
私の心はありますが、その愛の源泉(核心)は神の愛です。肉体や物質は失われても(土に還り循環する)、心(魂)は神の愛とともに永遠に残されます。心は本質である神の愛の表れだからです。人生において描いた愛のストーリーは神の記憶とともに永遠に残ります。

死後の世界がどういったところか? 転生はあるのか? 私は知りません。そういったことは行ってみなければわかりません。ただ言えることは、愛にたどり着いたならば、その愛はまた新しいストーリーを生みだすだろうということ。愛に終わりはない。だから永遠なのである。真の「輪廻」とは愛のストーリーが永遠に続いて行くということを示している。愛が永遠を望むから、永遠はあるのである。

おとぎ話のような世界ではあるが、愛の行きつく世界は、永遠の幸福な世界であるということである。
神が愛のお方ならば、きっとそういう世界を思い描くに違いない。

神を体験すること(神人一体論)

自分の内に湧き上がる神の想いが、言葉になり、行動になる。愛が形となる。
心が神と一つになり、目指すべき境地に達したとするならば、私は私であって私でない。神であり、愛であるということになる。私は私であると同時に神であり、「神人一体」であり、愛であると言うことができる。私という「器」は、神を知り、愛を体験するためにある。

人生とは、神の体験であり、愛を知り、愛(神)に帰するためにある。結局、愛の懐が天国なのである。

神は見えないし、形がない。心の中に湧き上がる根本のものである。神は愛となって働いている。
私たちは気付きもせず、言葉にもできないが、神は愛として生きているのである。私はその愛によって生かされていると言っていい。結局、すべてが愛によって築き上げられたものなのである。私たちは神を意識し、神とともにあるべきである。愛は神のものである。人はみな最後には、愛を賛美する詩人になるのかもしれない。

神は愛であるからすべてを有している。しかし、形はなく肉体もない。だから人間を通して、言葉をもち、体をもち、男女一つとなるという愛を自身に感じるのである。人と自然界の愛と美は、実は神のあらわれなのである。
神はご自身の愛を形にしてあらわし、感じたかったのである。神人一体であるがゆえに、男女の愛も神の愛なのである。

私たち人間は、神を宿し、神の愛を形にして表わし、愛し合い一つになる喜びを神にお返しするという目的を成就するために存在しているのです。神様は、私の内に在って、愛し合い、喜びをともに体験したかったのです。形ある実体としての愛の展開を見てみたかったのです。

人の理想は神の理想でもあるのです。天国は神とともに存在するのです。

まとめ

「神は自分のかたちに人を創造された。」創世記127
神はご自身の形に似せて人を造った。心(魂)を持つ人間を創った。だから、人の心(霊)は神霊に通じる。祈りは通じる。(神を認識できる、人は宗教をもつ)

心にあるものが形となって外に表れてゆく(創造と同じ)。心が中核であり、真実である。
心にあるものが形になってゆくのだから、なるべく心で罪を犯さないほうがよい。(イエスが言う通りに・・)心の浄さを保つことは、愛を守るためである。

マタイによる福音書 528
「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」

本来ならば、法がなくても愛があればうまくいく。他者を思いやる愛が一番の法なのである。自分の愛に自信がないから法(決まり事)が増えてゆく。本当の愛があれば自由が得られる。

もう一つ、この創世記の言葉には続きがある。
「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とある。
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
つまり、ご自身の愛を形にするために、男と女を造った。愛し合い一つとなる喜びを得たかったのである。神は、その愛が永遠に繋がり、無限に広がることを望まれたのである。

男女は神の形であり、愛の顕現である。
男女の愛し合う姿は、本来、神にとっても美しく、聖なるもので、喜びに溢れるものなのである。
「理趣経」が言うように男女の営みは仏の位なのである。

人として、心と体の成長が求められている。神(愛)を宿した人としての成長が求められている。そして、成長した暁に神から祝福されて男女が結ばれる。神はその愛の中に生き、人とともに喜び、愛を中心とした幸福な世界を築こうとされたのである。

神は人を通してご自身の形を得、彼らの人生を通して愛のストーリーを描き、愛を体験することができるのだ。男女は、愛を顕し一つとなる為に必要なものだった。愛によって、人は幸せになり天国に入るが、同時に神もまた幸せを感じ、ともに天国に暮すようになる。人には神の理想、愛の願いが込められている。

理想の中心にあるものは愛なのである。

常に神を感じ、神とともに日々を過ごすということは、神にとっても大切なことなのである。
神を一人にしてはならない。神の孤独を癒さなくてはいけない。

愛には形がない、神にも形がない。その愛を形にして、幸せな物語を紡いでゆくのが人の役割であり、それが神に喜びを返すことになる。神は愛を形にし、人を通して愛を体験したかった。愛を完成させ、無限の愛のストーリーを描き、喜びを共にしたかったのである。

2024.12.3

 <根拠となる聖書の言葉>

ヨハネによる福音書148節〜11
神をお示しくださいと言ったピリポにイエスは言った。
「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか、わたしを見た者は、父を見たのである。」
「わたしがあなた方に話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」

ヨハネ第一の手紙47節〜8
「愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれてきた者であって、神を知っている。愛さないものは、神を知らない。神は愛である。」