悲しみのとらえ方

○ 悲しみのとらえ方
悲しみのとらえ方、ということが重要になってくる。
以前は、悲しみの多い人は「不幸な人」だと思っていた。自分もその一人だと・・・
でも、単純に「悲しみ」=「不幸」ではないのである。
悲しみがあったとしても、愛が共にあれば、幸せであるということもできる。
神は愛である。愛は悲しみのある所に真っ先に働く。そして共に悲しんで下さる。癒しをもたらす。
愛の神は「大悲の神」でもある。
悲しみは共に悲しむ者によって癒され、その愛によって幸せになれるのである。(救われる)
幸せへと引き上げられる。
仏さまが「慈悲」である、そう思えるのは、悲しみの中を通過し、癒された経験があるからです。
通過している最中は辛いですが、後に残るのはあたたかな慈悲の心のみです。あたたかな救われた気持ちのことを浄土と呼ぶのかもしれません。
悲しみが多い人が不幸であるとは限らない。
神様は内生する愛の神である。悲しみのそばに寄り添う、慈悲の神、大悲の神なのである。
自分の中に愛が働き、愛を感じた分だけ幸せだったのだ。
マザーテレサや神谷美恵子は、自ら進んで悲しみの真っただ中へと飛び込んで行った。
それで、彼女たちは自分の人生を不幸だと思っただろうか? 恨み言をいうだろうか。
神様のそばにいれて幸せだと感じていたかもしれない。
悲しい境遇にありながら、笑顔で過ごしている不思議な人がいる。
そんな人は、心の内側に神が働いている人なのである。
悲しみのない人などいない。(いちいち不幸などと思わないことである)
そんな時にこそ愛を感じて、愛と一つになれば、幸福への道は開けてゆくのではないかと思うのです。
幸せの源泉は「愛」にあるのです。
結局、愛を知り、愛に至ることが人生であるのならば、悲しみもそのために必要であって、通過せざるを得ないものなのです。
そうは言っても、悲しみのただ中にある時は、ただただ辛くて、嫌なことなのだけれども、いつの日かすべてを受け止めて、感謝できる日が来ることを信じよう。
愛が救いをもたらす。愛が全てとなる。その日が来ることを・・・

○ 神を証しする人
悲しみの多い人は、それだけ多く愛を顕す、神を証しする使命があるということである。
(逆に、愛のない人だと乗り切ることができない。だから、選ばれた特別な人なのである)
より深く、愛を知り、愛に包まれる宿命の人なのである。
悲しみが多かったということは、より多く神の愛を受け、愛の懐へと帰ってゆく幸せな人生だったとゆうことになる。
悲しみを避けて通ることはできない。
悲しむ時は思いっきり悲しんであげよう。それが愛の証しなのだから。
苦しくても、逃げずにずっとそばにいよう。それが私にできることだから。
恐れるべきことは、神から遠ざかること、愛を失ってゆくこと。
悲しみが必ずしも不幸なのではなく、愛を失うことが不幸なのである。
思い通りのことができる華やかな人生ではないかもしれない。
悲しみの多い人生であったとしても、愛と共にいたということで満足しよう。
そして、愛が私に働いていることを証ししよう。
結局、最後に私が望んでいるのは、「愛と一つになること」なのである。
他のことは全て過ぎ去ってゆく。
神は愛であり、愛は永遠である。
2025.1.20

【聖書の言葉】
イエスは山上の垂訓において次のように言う。
「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」
マタイによる福音書 第5章4節
また、ヨハネの黙示録 第21章3節〜4節に言う。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」
これは、神と一つになり、愛のみが残り、愛に包まれてゆくということを言っている。
人は、我知らず涙があふれてくることがある。
神様は私の心の中に宿って、泣いてくださっている。愛ゆえの涙である。
そんな時、私たちは逆に神様を慰めてあげよう。
愛の為に流した涙のことを、神は決して忘れはしない。そして約束を果たされるであろう。