「四無量心」について

悟りの世界、「空」の彼方、究極の仏の心には「四無量心」が無限に広がっている。
四無量心とは、慈・悲・喜・捨の四つの心である。仏の心とは、慈悲喜捨の四つに特徴づけられ、仏と一つになるとは、慈悲喜捨の心を自分のものとすることである。

「慈」とは・・・

慈しみ。優しさ、いたわり、癒しの心。愛が悲しみに触れた時に発する心。

「悲」とは・・・

悲しみをともにする。共感。愛するがゆえに悲しむ。
痛みや悲しみを知り、他者を理解する。思いやり。共に悲しむところから癒しが生じる。

「喜」とは・・・

喜びを共にする。本当の幸せを求める。(みんなの幸せ)
愛によって一つとなる喜び。永遠の幸福、喜びの世界、浄土を願う。
「ほんとうの幸い」を喜んで迎えるべきである。

「捨」とは・・・

自ら(我)を捨てること。無欲。平等心。分け与える心。
愛に私心はない。「利他」の心。捨てるとは与える為に捨てるのであり、愛の表れと言ってよい。
捨てることができなければ、平等や平和も絵に描いた餅である。

   

仏教の教えは、仏と一つになり四無量心を得ることにある。四無量心は救いである。
神の愛と仏の慈悲は本質的には同じである。
雑多な法や理論、枝葉末節的な事柄、形式や道筋は違っていても、神にすべてをゆだね、愛と一つになるキリスト教と、「南無阿弥陀仏」と唱え、仏の慈悲と一つになる仏教とは、多少の表現の違いや個性の違いはあったとしても、究極的には一緒である。(人が言葉にした時点で、すでに違いは生じている)

すべてのものは無常であり、過ぎ去っていくものであり、無意味に感じることもあるが、必ずしもそうとは限らない。最後に残る永遠なるものはある。諸行無常であり、多くのことはとらわれるべきではないが、唯一帰着すべきところがある。宇宙の根本には、神があり仏がおられて、愛と慈悲の光を放っているのである。

自分という「我」はなくなってしまうかもしれないが。
私たちは、永遠なるもの、「愛と慈悲」に一つとなり、神に帰着してゆくべきである。

「神はいない。仏などあるものか」「宗教など単なる思い込みである」と嘆く必要はない。
東洋思想で言う「空」とは、何にも無いということではない。
本当に何にも無いのであれば、何も生まれてこないし、救いも浄土もありはしないということになる。
「色即是空」「空即是色」は成立しない。

人が「空」と言うのは、あまりにも原点であるがゆえに、はじめのはじめであるがゆえに、言い表しようがない、人間の理解を超えている、何もないように感じるからそう言っているだけである。「空」には、神の愛があり、仏の心「四無量心」が広がっている。何もないようなところからそれを感じとること、悟ること、それが宗教の道である。(自然の美しさを見てもそれを推察することができる。)

「空」に本当のものを見つけ出すのが宗教である。

人が仏性を備えているというのは、仏の心、神の愛に通じることができるということである。
神の愛を感じとり、仏の心「四無量心」を理解したなら、道は開けてゆく。

2024.11.20


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