「日日是好日」
(にちにちこれこうじつ)

『日日是好日』という映画がある。
樹木希林と黒木華さんが主演の、「お茶」を題材とした映画なのだが、先日BSテレビで放送していたので観てみた。主人公 典子は毎週、茶道教室に通い始める。季節が移りかわり、様々な日常を通過してゆく。延々と二十数年通い続けた。その中での心の変化を丁寧に描いている。
何でもない日常の映画なのだが、後になってじわっと沁みてくる映画で、繰り返し見、本を買って読んでみたり、「日日是好日」という言葉を調べてみたりもした。
どうやら日日是好日とは「禅」の言葉らしい。
「日日是好日」という言葉は、禅の書物『碧巌録』に出てくる問答が元になっている。
雲門文偃(うんもんぶんえん)という禅師が修行僧に問うた。
雲門 垂語して云く、「十五日已然は汝に問わず、十五日已後、一句を道い将ち来たれ。」
自ら代って云く、「日日是れ好日」。
意訳すると、雲門は問うた「これまでのことは訊かない。これから先のことを一句言ってみよ」。しかし、誰も答える者がいなかったので、雲門禅師が自ら答えて「日日是好日」と言った。
意味は次のようなことである。(一般的解釈)
日々の出来事について良し悪しを考え、一喜一憂することは誤りである。
人生においては、「良い」か「悪い」ではなく、如何にして「好ましい」日に出来るかと、今この時を大切にし、前向きに生きることが大事だ説いている。あるがままを良しとして受け入れ、「毎日をありがたく生きていく」ことらしい。
過去をむやみに悔い、未来に必要以上の期待を持ち込まず、現在(いま)を精一杯生きることに努めることが大切である。
2〜3日、ボ〜ッとしながら考えてみた。
以下は私なりの考察である。私自身と、障害のある子供の人生に照らし合わせてみた。

○ 「好日」とは・・
好日とは、何なのだろう? なぜそのように答えることができたのだろう。(苦しいことも多かろうに)
「好日」と言い切れる、その気持ちにはどのような思いが含まれているのだろう。
年をとってくると、昔のように物事に興奮したり、感動することが少なくなってくる。腹の底から笑ったり、はしゃいだりすることもない。意欲も体力も低下してゆく。しかし、しみじみとした深い感動や、押し寄せて来るような感情に満たされることはある。若い頃には感じなかったことを感じるのである。今まで見えなかったことが見えてくる。そして、しみじみと感謝の日々を送る。私には私の幸せがあり、彼には彼の幸せがある。(人と比べるものではない)
日々が「好日」であるという雲門の答えは、温かみのある、愛のある答えである。
愛に対して、愛をもって応えようとしている。だから、この言葉には引き付けられる。(まるで愛のある親子の対話のようだ)
「きっといい日になる。いい日にしよう」と神への信頼の言葉でもある。
こじつけて「好日である」と思い込み(自分に言い聞かせ)、無理に前向きになろうとしているのではない。そんな不正直な話ではない。

○ 与えられた命
与えられた命。最後の最後まで、感謝して、ニコニコと、大切に生きたい。
お金を使って贅沢をすることばかりが「幸せ」ではない。与えられることは、人や自然、みんなに与えて。日々を大切に、慎ましく生きることを望む人もいる。
老人になると、やりたいことが少なくなってくる。できることも少なくなってくる。意欲もなくなってくる。お金もそんなにいらないし使わない。みんな、失いながら(与えながら)生きてゆく。執着はしないことである。
年を取ったら何もできなくなる。認知症になるかもしれない。子供のことも心配だ。それでも感謝して最後まで生きることができたなら立派である。そこには命に対する敬意が込められている。
命には、命を生みだすために投入された愛が込められている。命と与えられた時間は愛なのだ。
命を大切にすることは愛を大切にすることでもある。神から与えられたものに対して、感謝をもって応えようとしている。
「日日是好日」とは・・・天が与えたものを、感謝して受け止め、大切に生きるということである。
「好日」という一語には、感謝の念が込められている。
雲門禅師は、おそらく悟ったのであろう。命が与えられていること、日々の時間が貴重なものであるということ。そこにはすでに愛があるのだということを。だから大切に生きるべきだと・・・
この世で成功したとか、お金持ちになったとか、自分が偉くなったとか。そういうことは、どうでも良くなってくる。(やがて消え去ってゆく)そんなことよりも、日々を大切に、周りにいる人や自然に優しくしたい。どんな姿、どんな形であったとしても、与えられた命に感謝して、精一杯生きよう。
この子だって、精一杯生きている。自分の運命を受け止めて、ニコニコしながら生きている。
何が幸せかはわからない。彼なりに愛を感じ、平安な気持ちに満たされている。大切な時間を過ごしているのである。安らぎに生き、愛を感じ、神様と共に生きているのかもしれない。
見かけではない。表面的に判断してはいけない。
人から見たら惨めな、悲しい人生であるように見えるかもしれないが。必ずしもそうではない。愛はそういうところに働く。彼なりに精一杯生きている。生きることに一生懸命だ。できないことが多いけれど、小さなことを大切にしている。
愛されれば、ニコニコとして「感謝」している。笑顔は、神の愛に対する答えである。
神の愛の中に生きている。この子はこの子なりに幸せなのかもしれない。
天から与えられた命を、与えられた時間を、どのような形であったとしても、大切に、愛情をもって、真心を込めて生きよう。それが「よく生きる」ということなのだ。
全ては過ぎ去ってゆく。愛をもって、感謝して生きることができたなら、それこそが天が望み、私自身が本心において望んでいることなのである。

○ 報恩感謝
「日日是好日」という言葉の奥にある意味について。
「日日是好日」という言葉は、口にするだけで晴れやかな気分になり、清々しい感謝の思いが充ちてくる。だから私はこの言葉が好きだ。
愛に応えて感謝すること。それが人生の第一義なのです。
人から見たら些細なこと、つまらないことのように見えるかもしれないが、愛を感じて生きることができたなら、それこそが素晴らしいことなのです。何でもない日常を楽しもう。繰り返しの中で味わおう。愛が込められていることに感謝しよう。
神から与えられた時間を大切に受け止める。それは神の愛に応えること。「感謝」を示すこと。
小さなことであっても大切にし、真心を込めて生きることが、神の御心にかなうことなのである。
「日日是好日」とゆう禅の言葉と、「報恩感謝」という浄土真宗の教えが重なって聞こえることがある。
与えられた命、与えられた時間、そして最後には慈愛のもとに摂取されてゆくこと。全ては愛であり、我々が抱くのは愛に対する感謝の念に他ならない。だから、「日日是好日」なのである。
お陰様で、いい一日でした、と感謝を込めて天に報告している。
仏さまへの信頼、そこから生まれてきた言葉が、「日日是好日」であり、「報恩感謝」なのである。
息子俊が、神から与えられた命に対して、感謝して(ニコニコとしながら)最後まで生き抜いたとするならば、それは貴いことである。人の一生は、愛に対して感謝で応える、「報恩感謝」の一生であるべきである。
俊は無意識の中で、そのように生きているのである。
余計なことは考えなくていい。
日々を大切に、命を大切に、最後まで精一杯、愛を感じながら、感謝して生きることが大切なのだ。
愛(神)を感じとり、感謝して生きることができれば、それで満足である。
俊もそうして生きようとしている。
最後には愛の懐の中に帰ってゆくだろう。
2025.1.27

補足になるが、映画の話しに戻してみよう。
「心の声」を聞こうとするお茶の精神が、なんとなく伝わってくる映画だった。
最後、主人公の父親が亡くなってゆくシーンがあった。直前に娘の典子に電話をかけてくる。「近くまで来たから、寄ってみようと思って・・」(典子は用事があったので会わなかった)どんな思いで電話をしたのだろう。典子が過ごす一日一日には父親の愛情(願い)が込められているのだ。そんな気持ちを大切にし、それを心の支えとして行く、そういう映画であった。
ちなみに、主人公典子が10歳の時に観て、全然意味が分からなかったという、暗い白黒映画「道」はどんな映画だったのだろう。気になったので、DVDを購入して観てみた。フェデリコ・フェリーニ監督の作品で、1956年アカデミー賞外国語映画賞に輝いた。切なく、悲しいストーリーだったけど、心が揺さぶられる映画だった。