「悲しみもまた貴し」
~宗教の辿る道~
この文章は、前著「心の散歩道」~障害者の親が辿る心の道~の続編です。
○ 二種類の悲しみ
「悲しみもまた貴し」とはなぜか?
みなさんは、「愛」が貴いと思うでしょ。
その愛には、どうしても悲しみがともなうというのです。
愛は、他者の為に寄り添い、悲しみをともにします。(ある意味、本人以上に悲しみます) その悲しみは相手のことを想った悲しみであり、癒しと温もりをもたらす愛の顕われ(慈悲)であり、有難いものなのです。
「悲しみ」には二種類あります。
自分に根差す自己中心的な我欲が充たされないことによる悲しみと、愛ゆえに生じる悲しみです。
自分自身のことに関する悲しみは、これは簡単で、自分を捨てればいい。あきらめればいいのです。
人間は「空」であり、もともと「自分」などなかったのですし、最後は消えてなくなるものなのだから、執着しても仕方がありません。
しかし、愛ゆえの悲しみは、相手が悲しみの中にいる限り、その悲しみに寄り添い続けますので、決して消えることがありません。愛が強ければ強いほど、その悲しみは大きくなります。でも、愛はその悲しみを包み込んででも、さらに愛そうと思うのです。愛とは、最も強く大きなもので、神ご自身がそう(愛)なのです。
愛ゆえに生じる悲しみは、悲しみを癒すための寄り添う悲しみです。それを「慈悲」とも言います。貴い悲しみなのです。それは、愛ですので、悲しみながらも幸せである、ということはあり得ると思うのです。包み込む私もまた、「大いなる愛」に包み込まれているのですから。寄り添い合う悲しみによって、お互いの悲しみを少しずつ癒すことができるのです。
○ 悲しみの哲学
悲しみは、寄り添う悲しみ(慈悲)によって癒されます。
悲しみは消えなくても、寄り添えばともに癒しの世界に住むことはできるのです。悲しみを無理になくそうと思わなくてもいい。ごまかして生きたとしても、そう簡単に悲しみが消えてなくなるわけではありません。この世は悲しみが溢れているのです。悲しみの中でも、生きてゆける方法を知るべきです。
悲しみごと抱きかかえてゆく、そういう大きな愛を持つことが大切です。
仏教はなぜ「悲」というものを掲げるのか、キリスト教はなぜ「十字架」という困難なものを仰ぎ見るのだろう。どちらも悲しみを貴び、苦しみを救いとする。そこに、本物の「愛」が顕われてくるからです。神は愛と共におられる。
いつしか、私たちすべてがより大きな神の愛によって抱かれていることに気づくだろう。ぬくもりと平安に包まれているのです。それは神様の約束です。
○ 宗教の扉
人生には大きな賭けがある。神はいるのかいないのか?
どちらを選ぶかによって、人生は「二つの道」に分かれてゆく。
信仰は、一つの大きな賭けのようなものだ。
もし、神がいて、その神が「愛」であったなら、私の存在の理由は愛だということになる。
でも、そうでなければ、ただ偶然、今「自分」がここにいるというだけだ。突き詰めればそういうことになる。
自己中心になるか、愛に生きるかの分かれ目になるのだ。
宇宙を観じてみたり、心を洞察してみたり、仏教は真理を探究することにより、悟りを開き、あるべき人間形成を目指していった。密教は宇宙と一つになる方法、禅は心の宇宙を見極める方法を説いた。そしてその奥にある、利他の精神や慈悲の心を見いだしたのである。
仏教は宇宙と人間を探索する果てに、神(究極の実在)と出会おうとしている。初期の仏教は、修行することにより、自らの力で悟りを開こうとした。(自力)人間側からの取り組みが主である。
一方、他力を主とする教えもある。
大乗仏教の流れをくむ、鎌倉時代の浄土教は、完全な他力思想で、念仏を称え、阿弥陀仏の本願に乗ずることにより救われる。一種のメシア思想である(キリスト教との類似点が多い)。阿弥陀仏にとりなされ、帰依することにより、慈悲の心と一つになり浄土へと入る。
『観音経』は救済のお経。観音さまを念じれば、観音力(慈悲心)が働き、難局を乗り越えてゆくことができると説く。自分の心の中にいる観音さまを見つけ出すということらしい。
「悲母観音」は、悲しみに寄り添ってくださる優しい仏さまです。慈悲そのものです。なんだか聖母マリアによく似ていますね。
もちろん、キリスト教は、神様からの直接のメッセージと、イエスによる愛の実践により、神ご自身の愛を示された。十字架による代理贖罪(とりなし)。イエスを信じ、神の御手にすべてを委ねることによって救われてゆく。キリスト教は「愛の宗教」である。
自力と他力、どちらの求めが強いかと言えば、当然、救おうとする神からだと思います。
信仰も神から与えられた信仰なのかもしれないが、求め合ってこそ出会うことができるというのも真実です。
出会えるのは、お互いに求め合っているから出会えるのである。どんなにそばにいても、それを認めなければ接点はない。どちらが先とか、どちらが主であるとか(強弱を)言うのではなく、お互いが求めあい、出会うべくして出会っているのである。それが救いの成立である。
天はその人にふさわしい方法で導くのです。
○ 宗教の辿る道
何故、人は神を見失ってしまったのか、神の愛を感じとれなくなったのか?
遠い昔、人の歴史の始まりの頃・・
人として成熟しないままに、神の戒めを破り、性欲によって愛を貪った。祝福される中、愛によって性を実らせたのではなく。自己中心的な性欲によって愛を奪い取った。「愛」に対する罪を犯したので、心が神から離れ、本当の愛を失ってしまったのである。
神から心が離れてしまった人間は、「自我」に固執し、自分を中心とした偽りの愛によって生きてゆくしかなかったのである。
神のもとに帰ろうとする多くの宗教は、禁欲を勧め、男女の性の交わりを制限し、淫行を一番の罪とした。罪の根がそこにあるからである。(神から離れた根本原因)
ユダヤ教(旧約聖書)の律法では、姦淫を犯すものは石で打ち殺すとしていますし、キリスト教の神父や修道女は生涯独り身であり、多くの仏教の僧侶は妻帯が許されませんでした。
情欲、異性に対する欲望は、生存本能に根差すがゆえに強く、すべての価値観、愛さえも覆し、自分を狂わせ、欲望に縛り付けてしまう恐れがあります。愛が成長するまでは、性を扱いコントロールすることは難しいのです。だから多くの宗教はそれを禁じました。
仏教では苦悩や不幸の根本原因を「無明」であると言います。
『十二縁起』にはその経緯が記されている。
十二因縁の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり、遠い遠い久遠の始まりの時に「無明」があった。この無明が原因となって本能の営み「行」(性的交渉)がなされ、生命が宿った。これが苦悩の始まりであるという。
神から離れて、光を失った状態(無明)から生まれてきてしまった。人生の苦は、まず「生まれる」ことから始まる。
キリスト教(聖書)では、失楽園の物語として、「原罪」が描かれている。「とって食べてはいけない」と戒められていた性の果実を、誘惑に負けて食した。恥ずかしくなった彼らは、裸であることに気づき、無花果の葉で腰を覆い、神から遠ざかった。
淫行は、愛に対する一番の罪です。祝福されて一つになるならいいのだけれども、そうでない淫行は神の心を踏みにじるのである。
「無明」とは、神を見失い、光を失った。光とは希望であり、神の言葉であり、約束である。
神の戒めに背いて、神から離れて性欲に溺れ、愛を汚した。心が神から離れて、神を直視することができなくなってしまった。(神を認識できなくなった。人と神との分離)
神を失った人間には「自分」しかなく、自分を中心として、自分の欲望と自分の判断に基づいて生きるようになった。これが自己中心、「自我」(エゴイズム)であり、全ての不幸の始まりである。本当の愛のない偽りの世界を築いてしまったのである。
愛には我(自分)という性質はない。神はそうである。人間もそうであった。しかし堕落したことにより、神から離れ、愛を失った。残されたのが「我」であり、自分に固執せざるを得なくなった。
自分から出発した人間は、どんなに善良にふるまったつもりでいても、自己中心であり、煩悩から離れられない。しかし、神の愛に触れれば、自分とゆう意識は消えてゆく。自分もまた無私なる愛になってゆくのである。我というのは、あってなきもの。愛があれば薄れてゆくものなのである。
多くの宗教は、「否定」の道を行く。
人は、「我」の強い生き物である。(そうなってしまった)
個性はあってもいいのだけれど、我が強いのは別の問題である。自分ばかりを前に押し出してしまう。だから宗教は、自分(我欲)を打ち砕きなさい。「砕かれた心」を持ちなさいと言う。砕かれた心に悪魔は働かない。そこは神の領域である。だから優しさが芽生えるのである。
砕かれた心を持つ人は美しい。「自分」という意識は本来あるべきではないものなのである。(自分を持ち出すと醜い)砕かれて、謙虚に神に委ね、愛に根差した心を持つということが美しいのである。
○ デカルトの哲学的命題
ここで、少し視点を変えて、哲学的に物事を見てみましょう。
デカルトは言う、「我思う、故に我あり」と、
全てを否定したとしても、否定しようとしている(考えている)自分自身が今あることを否定できません。あるのは「我だけ」である。だから我の欲望を満たすために生きる。これが神から離れた、一人ぼっちの生き方である。判断の基準は我にある。
でも、その自分は何処から来たのか。なぜ、自分は存在するのでしょう?
自分で自分を生みだしたわけではありません。私が原因ではない。気がついたら存在していたのです。
愛を見失った人は、自分の存在の理由がわかりません。
しかし、真実はそうではない。私が私を創造したのではないのだから。
真実は、実在があって私がいるのである。原因となる存在があるのです。神(愛)が原因です。
「神想う、ゆえに我あり」、と言った人がいます。
神の愛があって(生みだされた)私がいる。だから神の愛(神の願い)に生きてこそ、私は真に生きたことになる。私の存在理由は「愛」にあるからだ。全ての根拠は神の愛にあると言う。
自分(我)よりも先に、愛をおくべきである。
愛があってこそ、私が在り、私が生きるのです。
自分を先におくと、自分に固執してしまいます。自己中心になります。
「愛」を先におくと、自分は消えて(私心が無くなり)、愛に生きることになります。
自分の存在の核心にあるものは「愛」なのだ、ということを知らなくてはなりません。
○ 「空」の教え
『般若心経』では、ありとあらゆるものを否定し、全ては無である。無である、無であると説きます。だから、とらわれる必要はないんだと。(少し気が楽になります)
とにかく、般若心経は「これでもか」と言うくらいに、徹底的に否定します。「無」であると。そうなると逆に、私には本当に何もないのだろうか、と疑問さえ湧いてきます。この世には、何もないのでしょうか・・・そうだとしたなら生きていても仕方がありません。
本来、有るべきものは何なのでしょうか。
それを「空」の中から探し出す、祈り求めてゆくのが般若心経なのではと思います。
観自在菩薩(観音さま)が示すものは、やはり「慈悲の心」です。
表面的なものは全て捨てて、自分の心の奥に「仏心」を見いだしなさい。生きて働く観音さまに通じる呪文を唱え、仏さまの慈悲を蘇らせましょう、ということのようです。
もう一つの「空」。
ある福祉施設の職員が、みんなで行う年始の書初めの際に、自身の一年の目標として、「からっぽ」と書かれました。空っぽになりたい、ということらしいです。普通、一般的に見れば、「この人、大丈夫かな」と思われるかもしれません。でも、この職員はとても真面目で、いつも熱心に利用者さんに尽くしておられる方です。
「からっぽになりたい」とは、そこに神の愛を宿したいという意味です。
多くのクリスチャンは「神を宿す器」になりたいと願っています。
その人は、クリスチャンだったのかもしれません。
まずは私心を無くすこと、自分を捨て去ることにより、本当のものが見えてくるのです。
仏教では、「空」の教えを説き、その中に慈悲の心(仏心)を見つけ出そうとします。
キリスト教では、自分を空っぽの「神を宿す器」とし、神の愛を宿し、御心のままに生きようとされます。
どちらも、なんだか似ていますね。
○ 生まれ変わるということ(自己変革の必要性)
このように、遠い遠い昔、原罪によって「生まれてきたこと」に不幸の原因があるがゆえに、すべてを否定して、「空じる」必要があり、生まれ変わらなくてはならなくなるのです。完全に自己を否定し、自己中心から、神(愛)を中心にして生きることに変革する。
宗教多元主義を説いたジョン・ヒックが言うように、すべての宗教は共通して「生まれ変わること」「再生」「自己変革」を要求しています。
ふたたび『般若心経』です。
「この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある」と言います。般若心経は「空」の教えを説いている。神から離れたこの世には、真の愛はない。実体のない「無」の世界である。
「色即是空 空即是色」とは生まれ変わりを意味する。
はじめの色は(自己中心な)自我によってもたらされた「色」、実体のない無の世界(偽りの世界)。だから否定して「空」に戻す。
次に、その「空」は本来、神を宿すべき器であり、神の愛を宿せば、すべてが生まれ変わり、再創造される。愛によって鮮やかな「色」、色彩のある世界を取り戻すことができると言っているのです。
一般的には否定の否定は肯定である。しかし、宗教においてそれはただの肯定ではなく、「生まれ変わる」(再生)ということを意味しているのです。「色即是空 空即是色」とはそういう世界を説いている。(と、私は考えています)
愛は多様性をもつので、虹のように鮮やかに色彩が広がり、個性豊かな美の世界が生まれるのです。
「禅」の世界
禅とは、空の中から愛を読み取る為の修行であると考えています。
○ 救済の思想
釈迦は、全てのものは空であるという悟りを示しただけでなく、そこに宿すべき「慈悲の心」を阿弥陀仏や観音菩薩によって表現し、信仰の対象として立て、仏に帰依することで救われるという道を開いたのです。「一切衆生 悉有仏性」、仏の心をもって浄土に至る道である。
キリスト教でも、イエスの十字架上でのとりなし(代理贖罪)を信じ、神の愛にすべてを委ねてゆくことで。生まれ変わろうとするのです。神からのより強い思いに、すべてを委ねるのである。それが自分に勝つ方法なのです。
慈悲の心、悲しみに寄り添う心があれば、自分の悲しみを越えられる。
自分を捨てるということは、修行をしたところでなかなか難しい。
「捨てよう、捨てよう」と自分のことを思うと、なおさら未練が残る。執着する。
しかし、「愛」を先に立てたなら、自然と自分はなくなってゆくのである。愛には私心をもたないという特徴があるからです。
あきらめることは許すこと、許すことは愛すること。
愛するがゆえにあきらめることができるのです。捨てることができるのです。愛によって自分(煩悩)を追い出せばいいのである。
○ 淋しさの理由
障害児のいる家庭では、その子を常に見ていないといけないので、社会活動が制限されたり、疎外感を感じることが多いと言われます。「なぜ、自分だけが・・」と思ってしまいます。社会全体、みんなで支えてあげる必要があります。
でも、一番根本的な疎外感は、障害があるなしに関わらず、神とともにいないということです。
自分を中心としていると、どんなに華やかに暮らしていても最後には自分に帰り、一人ぼっちになってしまいます。(結局自分なのかと、がっかりしてしまいます)
人は神から離れるから淋しいのです。愛があれば一人であって一人でない。神とともにあれば、愛があり、神の有するすべてのものが共にあるのです。だから淋しくない。すべてのものから愛を感じることができます。
老いについてもそう。社会から退き、どんどん一人になっていき、今までできていたことができなくなってきます。最後に残るのは神と私だけです。どのような心で行くかということです。
人生最後の時も、「愛」である神と一つになっていれば(愛になり切っていれば)、「御心のままに」と、捧げきることもできるでしょう。愛として、愛のもとに帰るのだから、それほど淋しくないかもしれません。与えきったことで満足です。
でも、もし自分にばかり固執していたら、死はすべてを失う辛い出来事になってしまいます。
愛がなければ、与えたことは失うことになるからです。最後の最後まで、損な人生になります。
○ 愛に帰着する
苦労や悲しみは、愛を深めるためにあります。
昔の人はよく「若いうちは、苦労は買ってでもしなさい」と子供に諭しました。悲しみもまた、人の悲しみを知るために、愛するために必要なことなのです。
愛は悲しみを伴います。そしてその悲しみは簡単には消えません。
では、どうやってそれを乗り越えればいいのでしょうか?
そういう時は、悲しみごと包み込むように愛すればいいのです。
悲しみから逃れようとせず、神様と一つになって、すべてを包み込むように愛するのです。
愛はすべてをかき抱き、すべてを癒し、すべてを幸せにするものなのです。
最後に残るのは「愛」だけですから、やがてその悲しみも時とともに癒され、悲しかった記憶は残りますが、愛の深さを示す貴い存在(軌跡)となるのです。
神様は「愛」です。
人は、愛から生まれ、愛に生き、愛に帰ってゆくのです。
幸せは、愛の中にあるのです。
本来の人間のあるべき姿は「愛」なのです。そうならなければ満たされません。幸せになれない。だから、「我」に取りつかれている間は、どんなにこの世で成功していたとしても、実は不幸なのです。
人間が人間らしくなるということは、「愛」になるということです。
○ 感じ取るべきもの
私にとって神とは、脳の機能によって作り上げられた架空のものではなく、自分の心の働きの中の一つ(心の一部)でもありません。「生きた神」が存在し、私の心に通じておられるのだと捉えています。(心は神に通じる窓口)
何故なら、自分ではありえないような言葉や想いが湧き上がってきて、私を導いて下さっていることが分かるからです。それは感じ取るべきものです。見えなくても、聞こえなくても、心と心は通じ合うものなのです。(霊の交わり)
初めは、「ひょっとしたら」と思うのですが、繰り返すとやがて確信に近づいてゆきます。
神とは、心で通じるべき相手である。だから、華やかで、社交的な人よりも、地味で、無口、内向的な人の方が通じやすいかもしれない。表面を飾るよりも、内において真実な人の方がいい。
神を感じとるためには、神と一つになる為には、神と同じような道を歩まなくてはいけない。悲しみの中にありながらも愛してゆく、それが神と一つになる(本物の愛を知る)道である。
一人で行くには辛い、悲しい。しかし、同じ悲しみを抱きながらも愛している神がいる。だから、悲しいけれども、嬉しい。辛いけれども、安らかである。そういった心境になる。それが真実の道である。(偽らざる姿である)
愛は、時として悲しい道である。切ない道である。
愛において一つになるから喜びがあるのです。愛すれば神とともにある。
神が愛であり、愛が究極の目的であるから、満足し得るのである。
愛は幸せをもたらすことを知っているのです。
○ キリスト教神秘主義
「神秘主義」は不思議なつながりをもたらしています。
”暗黒時代“と呼ばれた中世、キリスト教会の腐敗から脱却し、純粋で神秘的な神との霊の交わりを大切にし、真に神との合一を果たそうとした「神秘主義」mysticism。その信仰と思想は不思議な潮流をもたらしています。
元々は、イエスの十二使徒であるパウロとヨハネの信仰におけるキリスト体験に始まる。
『神の国』『告白』で有名な聖アウグスティヌスは神秘思想家であるし、ドイツ神学者マイスター・エックファルトもその神秘思想で世界に影響を与えました。神性の無を説き、離脱して神を宿すことができると教えます。しかし、神人合一の教えは間に立つ教会の軽視につながるということで、異端視されました。(離脱の重視はちょっと行き過ぎた感じはありますが・・ともに愛で一つになる方がいい)
鎌倉時代、日本の新仏教、法然・親鸞・一遍によって確立された浄土思想も、おそらくその流れに近いと思われます。古い仏教界の因習にとらわれず、庶民の為の仏教。「念仏」を称えるだけで、阿弥陀仏に帰依し、仏と一体になって浄土に行く。しかし、時の権力の怒りに触れ流罪にされますが・・
エックファルトの教えは、日本の禅や浄土思想にも影響を与えています。
私の尊敬している柳宗悦の著書にはエックファルトの言葉が多く引用されています。真の信仰を追求し、自分を無にし、神人合一、即身成仏を果たそうとしているのです。
カルメル会のリジューの聖テレーズも神との交わりを記した、世界で慕われているカトリックの修道女です。『自叙伝』や『小さい花の物語』は心が和みます。テレーズは自分の天職を「愛」であると語っています。マザーテレサも同じく神秘家の一人です。(マザーテレサのテレサの名前はリジューのテレーズからとられています)
ヨハネ第一の手紙 4章16節
「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」
「神が愛である」ということを信じている。
それだけが私の信仰なのですが、それもここから来ているのかもしれません。
○ 愛を知ることが、神を知ること。
愛については、愛した者にしかわからない。
だから神に対する理解は、人によって異なるのである。人それぞれ自分の体験した愛によって神を見るのである。
悲しみを知る人は、それだけ深く人を愛することができるのだ。深く神とも一つになれる。
愛を知ることは、神を知ることなのである。
その愛(神)は私の中に生き、私を救い、人々にも救いをもたらす力となるのである。
一生において得るべきものは、「愛」だけなのだ。愛だけを携えて神のもとに帰ればいい。
愛から生まれたものは、愛に生き、愛に帰る。これが人生の正しい道筋である。
○ マザーテレサの言葉
私は、次の二つの言葉が好きです。
「痛みを感じるほどに、愛しなさい」と、「愛するところに、神はおられます」の二つです。
「痛みを感じるほどに、愛しなさい」という言葉には、マザーテレサが、どれほどイエスを求め、真の愛を求めてきたのか、愛に対する真摯な姿勢、その「覚悟」のようなものが感じられます。(本気度が伝わってきます)
むろん、障害者の親も、マザーテレサのように、(普通では考えられないような状況にありながら)心も体も血まみれのようになりながら、絞り出すように愛してきています。限界を超えて愛するところに、本当の愛が問われてくるのです。
マザーは、その愛の中に神を感じ、神と出会ってきたのです。
マザーの心の平安は、愛の中で神と一つになる、その喜びによって得られたものなのです。
「愛するところに、神はおられます」とは、そういうことを示した言葉なのだと思います。マザーが求めてきたのは、愛であり、生きた神様だったのです。これは、実際に愛に生きた人のみが真実であると感じられる言葉なのです。
貧しい人や障害のある人、辛い人、痛みを感じ苦しんでいる人は、それだけ重い十字架を背負っているのです。イエス様と同じです。神様はその悲しみに寄り添っておられます。だから、マザーは倒れている人を見て、「イエスだと思いなさい」「神様はそこにおられます」と言われるのです。
障害者の方々は、あなたより遥かに重い十字架を背負っているのです。それだけ神様に近い人々なのです。愛の必要な人なのです。
愛というのは、単独で成立するものではない。
愛する人と愛される人とがいて成立するのだ。そして、愛し合えば、ともに同じ愛の中に住むようになる。だから、障害児とその親も、同じ愛の中に住んでいるのです。そして、その愛は神の懐「大きな愛」の中にあるのだ。
重い障害のある子も、ちゃんと「愛」に貢献しているのです。
○ 癒しの世界
神様だって悲しみを抱えておられる。それは愛ゆえの悲しみである。人の悲しみを包み込み、癒す、寄り添う悲しみである。「慈悲」とも言う。神は大悲の神なのである。
この稿の初めに申し上げましたが、悲しみには二種類あります。
自分のことに関する悲しみと、愛するが故の悲しみです。
自分の損失や思い通りにいかなかったことについては、自分を捨て、あきらめてしまえばそれで済む。もともと無かったものなのだから。
しかし、愛ゆえの悲しみは、相手を愛し続けるかぎり消えることのない悲しみなのです。子どもに障害がある場合は、親は悲しまざるを得ません。
ただ、悲しみ続ける中においても、愛ゆえに癒されてゆく部分もあります。悲しみは悲しみなのだけれど、そこに内在する愛はそれ以上に大きく、価値のあるもの(貴く、温かいもの)だからです。私たちが本当に得たいものは「愛」なのです。愛ゆえに悲しみを越える「癒しの世界」が創りえるのである。大悲の神がもたらす天国とは、そういうところです。悲しみはあったとしても、それは癒される悲しみであり、残るのは愛だけである。
神は愛です。私も愛になります。(たとえその過程において悲しみがあったとしても)
愛において一つになるから喜びがあるのです。救いがあるのです(癒されるのです)。私も救われるし、神も救われるのです。
愛は幸せをもたらすものなのです。
○ 幸せのカタチ
人は、はたして幸福になれるのだろうか。(私のようなものでも、幸せがあるのだろうか・・)
その幸福とは、いったいどういったものなのだろうか?
一口に「喜び」とか「幸せ」と言っても、その人が通過した歩みによって、その形や姿、内容や質は様々に変わってくる。私たちが得るものは、華やかな成功や快楽、達成感や優越感、賑やかに騒ぎ大笑いするような幸せではないかもしれません。物質的に豊かで、容姿と力に秀でて人々から持て囃され、環境や境遇に恵まれることが常に幸せであるとは限りません。
穏やかで静か、悲しみさえも包み込む愛があること、安心感や癒し。そういった「静かな幸せ」「穏やかな幸せ」もあるのです。愛によってもたらされる幸せは、人それぞれ違うのです。一見惨めなように見えても、敗北者に見えても、人にはわからない。それでも愛があれば幸せであるということはあり得るのです。
人それぞれ、自分に合った居心地のいい場所を見つければいい。
(あんまり煌びやかなところだと、いるだけでしんどい、落ち着かない)多くのものは必要ない、あれば人に与えてしまうだろう。
幸せとは人と比べて優劣を決めるようなことではありません。
私には私の、私にふさわしい幸せがあるのです。
賑やかでなくてもいい、無理をしなくてもいい、穏やかで、静かなひと時を味わおう。
「幸福のカタチ」がいろいろあったとしても、愛によって幸せがもたらされるということに間違いはないのだから・・・
私にとっての精一杯の愛のかたちを示したのだから、これを「幸せ」と呼んでもいいのではないか。
私には、これ以上のものはないのである。神と一つになり、神とともに愛してきた、その愛の中に住むことになる。それが私の居場所であり、私の天国なのです。
許した人は、既に許されているし、
与えた人は、それ以上のものを持っている。
愛した人は、その愛の中に住んでいる。
困難を乗り越えた人は、どのような場所においても、穏やかに生きてゆけるだろう。
愛してきたことが正しかったのである。私の天国は、私にとっての天国なのである。それ以上のことはわからない。
神は愛なのだから、あとは、すべて神に委ねておけばいいのです。
愛してきた人は、神の「大きな愛」の中にいる。それが天国です。
2024.5.31
【追記】
人にはいろいろな生き方や考え方があります。
ここに書かれていることは、あくまでも私個人における信仰の告白であり、生きた証です。
人に押し付けたり、勧誘する為に書いたものではありません。ですから、「信教の自由」あるいは「思想の自由」という観点から、寛容に受け止めて頂ければありがたいです。
私は、特定の宗教・宗派に固執する必要はないと考えています。(共通点があります)
そのほうが、広く世界を見渡し、自由に行き来できるので、争いが少なくて、学ぶことが多いと思っています。もちろんその中で、好きな人たち(仲間)がいるのは良いことです。
五島列島のある密教寺院(大宝寺)で、キリシタン弾圧があった時期に、小さなマリア像を観音さまだと称して、寺院の中にかくまっておいてあげたという話しがあります。「同じ心の救いをもたらす宗教です」と言い、寛容に守ってくださいました。いい話です。
信仰や信心は、他者から強要されて身につくものではありません。人と比べたり、人を裁くためにあるのでもありません。神は一人一人の心に語り掛けるのですから、信仰は自分の心の奥底から、自発的に湧きいずるものです。だから、心に響く言葉を大切にしなくてはなりません。自然から学んでゆくこともそうです。
そういう意味で、学んだり気付いたりすることが大事です。(宗教・宗派を超えて)
そして、弱い心を支え合うために、交流し、支え合うことも大切なのです。
皆様からの感想やお便りをお待ちしています。
長々とした文章にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
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