コップ一杯の水と魂の行方

20232月、NHKのスペシャル番組で、「超・進化論コンサート」~いのちのハーモニー~というのをやっていました。人気シリーズ「超・進化論」のテーマソングや生命に関する音楽を、フルオーケストラで演奏するという番組です。番組の司会は、福くん。そしてゲスト司会者として、福岡伸一博士が招かれました。

コンサートの合間で、ちょこちょこっと話される福岡ハカセのお話しがとても印象的です。
『共生』とは? という質問コーナーでクイズになりました。

福岡ハカセ:「ここに、コップ一杯の水があったとします。この水を海にじゃーっと流します。
そして、全世界の海をぐるぐるかき回すとします。
そして、もう一度コップを使って一杯の水をすくってきます。
そうすると、もとにあった水のうち何分子がこのコップに戻ってきていると思いますか?」

福くん:「本当に海は広いから2~3個あったらいい方じゃないですか。」
福岡ハカセ:「答えは、数百個の分子がコップに戻ってきているんです。」

この話は、シュレーディンガーの『生命とは何か』という本より引用されています。

「いま仮に、コップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとします。次にこのコップの中の水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなく一様にゆきわたるようにしたとします。もし、そこで海の中のお好みの場所から水をコップ一杯汲んだとすると、その中には目印をつけた分子が約100個みつかるはずです。」

シュレーディンガーは、分子生物学の生みの親であり、この本を読んで感銘を受けたワトソンとクリックによってDNAの二重螺旋構造が解明され、ノーベル賞を2つ受賞したライナス・ ポーリングもこの本を読んでいました。

「コップの水」の話しですが、その続きで・・

福岡ハカセ:「今ここだけでなく、太古の昔から地球全体を水は循環している。
水の分子も炭素も水素も窒素も、ですから、クレオパトラの涙が聖徳太子の汗になり、それがめぐりめぐって我々の一部になっているということで、その循環の流れのすばらしさと、それを絶えず回してくれているのは、植物、動物、微生物、昆虫、そういった生命の仲間たちが、地球の健康のために、絶えず生命の流れをまわしてくれている。」

人は、自分が死んだらこの体はどうなるのだろう・・・と、葬儀やお墓の心配をしたりします。

人の体はほとんど水でできている。海に流された「コップの水」と同じように、人の体も分子となって、地球上のあらゆるところへと拡散されてゆきます。水蒸気となった水分は海に降り注がれるし、炭素や窒素は植物に吸収されるし、ミネラルは土となり栄養素となる。土葬でなくても土葬になるし、海洋散骨しなくとも海に還ることになるし、樹木葬でなくとも木々に吸収され、新しい命を生みだす一助となります。

人の死は、命を生みだすために捧げきる、利他的な行為なのです。
だから、与えられた生命を全うし、生命の原則に従い、生態系(大いなる生命)の中で生きることが大切です。
かつて生き物の一部だった水の分子が、今、目の前のコップの水の中にあり、それを飲む私の体の中で生かされている。全ては循環している。だから、私たちが食事をするとき「いただきます」と言うのは、正解であり、ありがとうということで、生命のつながりを意味しています。

遠い先祖や近しい人たち、事故や病気、震災で亡くなった方々もみんな、めぐりめぐってここにいるのです。お墓に行くまでもなく、私の身のまわり、体の中に戻ってきています。

生命というのは、はかないもののようだが、逞しい流れがある。その大いなる生命の為に命を捧げるのです。
もっとも、生命は「動的平衡」によって維持される為、常に入れ替わっています。だから別に死ななくても、私の体は入れ替わっていて、自然界や森羅万象の間を行き来しているのです。『物質』の循環、体の行き先、死の意味とはこういうことです。

ただ、これだけでスッキリしないのが人間と言う小難しい生き物である。

魂の行方

『魂』がどうなってゆくのか?・・・・ということである。(内面的意味を問う)
一般の人には霊界(あの世)がどんなところなのか、見てきた人は少ないし、あるかどうかさえ確認できていない。ただ、みなさんお墓や仏壇の前で手を合わせる。
どうゆうわけか、霊というものは見えないようにできているようだ。(感じること、信じることが大切なようだ)

話しをまた「超・進化論コンサート」に戻してみよう。
コンサートも終盤に差し掛かった時、司会者の方から福岡さんに、「コンサート全体を通して感じたことは何ですか?」と問われました。

福岡ハカセ曰く:「生命は、必ず個体の生命は、生まれて死ぬという有限の中にあるのですが、誰しも、どうして死ぬのに、そんなに一生懸命生きるのか?あるいは、死というものを遠ざけたい、という風に思っているかもしれません。でも、生命にとって死というのは、最大の利他的な行為なんです。
というのも、常に手渡してゆくからこそ、この38億年の生命の進化が成り立っているので、それぞれの生物は必ず、自分が占有していたニッチ、自分が生きていた場所や、使っていた資源、あるいは占有していた空間というのを、必ず誰か他の生命に手渡しながら進化を続けてきたわけです。そういう意味では、死というのは悲しいものでも、恐れることでもなく、生命38億年の大きな流れに自分も参加しているという、そういう行為だという風に感じます。」

生きてゆくということ、そして死ぬことさえも利他的な行為なのだと説くのです。
連綿と続く生命の真理は、他者の為に生き、つながり合い、共生し、支え合って大きな生命として維持されているということ。生き物たちの生きる本質は「愛」なのかもしれません。

「死」というものは全てを捧げきる愛の行為です。そこには見返りを求めるような打算はありません。全てを神様や仏様、自然の大いなる力にゆだねるのです。
「愛」というのは与えるもの、捧げきるものですから、打算があったのでは愛らしくありません。行き先が見えていたのでは、結局自分の為なのかということになってしまいます。だから、一番大切なものであるからこそ、見えないようにできているのです。(不思議な真理ですね)

見返りを求めずに与えるということは、大切な意味があるのです。
だから私たちもあえて知ろうとせず、捧げきること、愛に近づくことを目指しましょう。これが、今日のもう一つのテーマである「魂の行方」についての私なりの答えです。

打算的にならないということは、知る必要がないということなのです。

あの世には何も持っていけません。だから多くの人は子孫にそれを残そうとします。子孫は私の分身、延長線のようなものです。自分に与えているのと同じ(損得感情が働いてしまいます)。何の身寄りもなく、自分から遠い、赤の他人や貧しき人たち(弱者)、あるいは大自然の営みに全てを還元する人は、より純粋で、愛の完成度(純度)は高いように思われます。最終的には、神の愛に帰るのが人間なのです。遠くのものまで愛するということは、全てを愛するということです。(キリストは怨讐までも許し、愛そうとされました)

純粋に愛したのならば、それでいいのです。

私の体は分子となり、全ての生き物の中で生きているということ。
そして、魂の世界はあるのかないのかはわからないけれども、行ってからのお楽しみということになります。それは、愛の為にそうなっているのです。どんなとこかはわかりませんが、許し合い、与えあう、「愛の世界」の方がいいでしょう?

次の世界で、晴れ渡った青空を見上げることができますように。

2023.5.1

PS あっ、そうそうコンサートの話しですから、音楽の感想も書かなくちゃ。
やはり私には、聴き慣れたホルストの「惑星」がよかったですね。フルオーケストラで迫力があり、カッコいい曲です。

「魂の行方」についての考察(追加)

少なくとも言えることは、「一かけらの心は、みんなの心」だということ
全ての生き物、森羅万象の心の中に、私の心は生きているでしょう。心はつながっていて一つなのですから。(自覚や認識されることがなくても、思いはどこかに溶け込んでいる)

そしてもう一つ、
恵まれなかった人でも幸せになる道があるんだということ。
恵まれたもののみが幸せになるのではなく、「貧しきものは幸いなり」と言われるように、
「愛」を高めて(純度を高めて)、本当に目的とするものと一つになれるという幸せがあることを憶えておきたい。
与えられた運命を受け止めるというだけでも、すごいことなのです。