愛とともに生きる

神は愛である。
愛とともに生きるとは、神とともに生きるということであり、愛と一つになり、自分も愛になるということである。
「空」の中に愛(慈愛)を感じとり、その愛を形にしてゆく。愛に生きてゆくということ。

愛は幸福(ほんとうの幸せ)をもたらし、人を天国(浄土)へと導く。
愛と一つになるということは、慈悲と一つになる名号「南無阿弥陀仏」でもあり、そうなることが救いなのである。

愛を探し求め(愛の探求者となり)、愛とともに生きることを心がけよう。
愛の教えは、神の教えであり、私心がなくみんなの幸せを求める。元々、みんな神のものだからである。愛を学び、愛を育ててゆこう。

愛とともに生きるとは、神を宿して生きるということであり、「神の器」として生きるということである。多くのクリスチャンが望むように、自分を空っぽにして、神を宿し、神の導きに従ってゆくことである。
マザーテレサや神谷美恵子の生き方を見ればそのことがよくわかる。(苦労したとしても)恨みごとは言わない。神の愛とともに生きたことに喜びを感じているのである。

これはまた、空也や一遍が、一切を捨てて「南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言った境地とよく似ている。

大乗の深義は「空」なりと言う。そのことを悟り、自身の名を空也(くうなり・くうや)と名乗った。放浪の旅の果てに、「空」の中に見いだした(自分の中に感じた)ものは「仏の心」(阿弥陀仏・慈悲)だった。だから「南無」、その仏の心(神の心・愛)にすべてをゆだねますと言ったのである。慈悲の心をもって生きることが、彼にとっても救いだったのである。

「空」とは、空っぽの自分と宇宙を指している。その中に大いなる生命、神、愛(慈悲)を見いだす。自分の中に愛を宿してこそ人は人たりえるのです。そして宇宙は浄土と化すのです。

一遍は、「名号(南無阿弥陀仏)は即ち心の本分なり」
「名号に帰するより外は、我とわが本分に帰ることあるべからず」と言った。
潔さ、生き方のすがすがしさが、クリスチャンとよく似ている。

教理・経典(仏法)は山のようにあるかもしれないが、突き詰めれば愛(慈悲)と一つになることに尽きるということである。だから、全てを捨てて、「南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言ったのである。

人は自分の中に愛(慈悲)の心を育てていって、はじめて本当の人間(神の子)になるのである。

キリスト者の道、仏教徒(念仏者)の道は、「報恩感謝」の道である。
人生は全て「愛」に帰結(収斂)してゆく。愛は幸せに至る道であり、感謝の道なのです。

愛とは、温かいものである。優しいものである。だから、愛とともにいるだけで幸せだなと感じることができる。神とともにいる信仰とはそういうもの、温かく安心感・信頼感がともなうものなのです。赤子が母の胸の中に抱かれて安心しきっているのと同じです。理屈ではなく、義務感でもなく、心がそう感じるから続けてゆけるのだと思います。愛とともにいたい、ただそれだけなのです。
だから、神が愛であるということ(父であり、母であるということ)、それが一番うれしいのです。
自分に宿る神が「愛」であるということ、それが最大の福音です。愛は幸せを運ぶものです。

障害がある子供で、言葉がなかったとしても・・神は宿る。
笑顔は愛の証し、神の証し、幸せの証し。

人間とは、神の愛を形にする(realizeする)ための存在である。
愛に生き、一つとなることに喜びを感じ、「ほんとうの幸い」至ることが人生である。
愛は幸せを運ぶ。いつかきっと愛に充ち溢れた、相和する世界をもたらすだろう。人はその世界を浄土と言ったり天国(神の国)と呼んだりするのである。愛が形となり、世界に広がったものが天国であるとも言える。そこに神と人は共に住むのである。

神が愛であるということを信じ、その神を宿し、愛とともに生きること、それが私の信仰です。

2024.12.9