.

生命のつながりと愛

〜生命の輪と自然の理、そして愛〜

はじまり

有機農業や自然農法を行い、突き詰めていくと、人は哲学的になったり、ある意味で宗教的になったりするようだ。それは、探求していく過程の中で自然界の仕組み、人間の存在や自然との関係を考察することになり、「人の生き方」に関する問題に行きつき、選択しなくてはならない立場に立つようになるからです。単なる方法論にとどまるのではなく、人の生き方、存在のあり方にまで考えを及ばさざるを得なくなります。
しかしこれは、一部のマニアックな人たちの「オタクな世界」のお話ではなく、現在、世界が直面している問題でもあるのです。
国連環境計画(UNEP)のアヒム・シュタイナー事務局長は、2012年に約600人の専門家が3年がかりでまとめた地球環境に関する525ページにわたる報告書を発表しており、その結論として「地球は既に限界点」であり、人類はもう「生き方を変える」より他に選択肢がない地点にまで来たのだと語っています。世界の状況はそこまで追い込まれている。
人が生き方を変えるしか、地球に未来はない・・・と言うことなのです。

地球環境と有機栽培と、どう関係があるの? と疑問に思われるかもしれない。
実は、
ecoと有機には深い共通点があります。ポイントは「生態系」。
それでは、有機栽培の視点から「自然のしくみ」について考えていきましょう。

○「有機」の意味

私は以前、有機栽培といえば、有機物を肥料として使い、無農薬であればいいのだと思っていました。そういう浅い考えで、「有機」の意味を深く問うことはありませんでした。ですから、自然農や自然栽培こそが真に自然と共生する究極の農業なのだと考えていました。しかし、結局のところ突き詰めれば、みな同じ方向にむかって行くのだなと思いました。つまらないところに垣根をもうけ、対立する必要なはいと思っています。(自然を愛する人は、仲良しになると思います・・・)
有機の「機」とは、「しくみ」と言う意味。すなわち「自然界の仕組み」“生命の仕組み”がそこにある(有する)ということです。
木村秋則さんは、「自然栽培は生態系栽培です。」とおっしゃられました。川口由一さんが言う「自然の営みに添い、生命のめぐりを大切にする。」そのような栽培方法、本質的には同じで、多くの共通点、学ぶべきことがたくさんあります。

要約すると、有機栽培とは「生命のしくみを有する栽培」、すなわち生態系の働きを生かす栽培方法と言うことになります。ですから行きつく先は、自然農や自然栽培です。
そして、「生態系」とは、英語で言うと“eco-system”のこと。
本当のエコとは、人が生態系の中で生命の法則にそって生きることを言うのだと気づかされます。
“生命の輪”のなかで共生することが大切なのです。

地球レベルにおける「生態系」=“生命の輪”を守るために、気候変動を抑制するための枠組み条約をもうけたり(温暖化防止策)、生物多様性を維持する為の条約をもうけたりしています。小さく縮小してみれば、有機栽培の中に起こる出来事が、大きく見ると地球環境を維持する為のヒントになるのです。


畑をやっていて楽しいことは、1年ごとに生命の循環を体験することができるということ。
雑草が土に返り、野菜になる。あるいはウンコ(堆肥)が分解され養分になり、口から入る食べ物になる。1年生草本類を基本とする、草(野菜も同じ)レベルの生態系の活力をいかに高めていくかという努力・工夫をしてゆきます。生態系を学ぶ一番の教材が農園なのだと考えていました。
ですから、障害を持つ訓練生には、「この畑で生態系について身をもって理解し、自然の理から人の生き方を学ぶことができたなら、卒業です。」と言ってきました。

土から始まり、土に返る。

有機栽培の基本は、「農業聖典」を記されたアルバート・ハワードの言うように「土から得たものはすべて土に返す」ということ。生態系の基盤は「土」にあるということです。
生態系を形成する三つの主体。植物・動物・微生物にはそれぞれの役目があり、お互いにつながりあって共生しています。植物は「光合成」を行い太陽エネルギーによって水と炭素を合成し、有機物(糖やでんぷん)を生産してゆきます。動物はそれを消費しながら活動エネルギーにします。最後にすべての有機物は朽ちて微生物によって分解され、新たな生命の源・栄養素になるように土に返すのです。
土(土壌)は、単純に言えば鉱物と有機物、微生物などの生命体が混在する層のことなのですが、非常に生命の密度が濃い、生命活動が活発な、生態系を維持する為の基盤となる場所なのです。

地上(大気圏)は森林限界に至るまで海抜2000mくらいが生き物の生息範囲です。海中は、深海にすむ特殊な魚を除けば、主な生息域は大陸棚を中心とする200mくらいです。
しかし、土壌と呼ばれる地中の生命域は、陸地の面積で平均すると、わずか18cmしかないそうです。しかしながら、生命の大半は地球を取り巻くその薄い膜の中に住んでいるのです。そして多くの生き物は、土壌の生産力に依存しているのです。
“生命の輪”は土壌を基盤として始まっているのです。

生命あふれる土

土壌とはとても面白い構造をしていて、素晴らしい働きをしています。
良く肥えた土地や畑の土は団粒構造で、その半分が空間になっているそうです。スポンジのようにフカフカで隙間(孔隙)が空いているということです。この「隙間」が大切です。植物の根が呼吸するための空気がそこに入り(通気性の確保)、雨が降ればその空間で保水する。そしてその隙間は植物の根が張りやすく、有機物(腐植)を分解し土づくりをしてくれるミミズや微生物の棲家(生息場所)となります。
私たちはメンバーさん(利用者)に「畝は微生物の高層マンションのようなものです。」と教えています。耕耘機で粉のようになるまで耕し、作付けの度にいちいちその“マンション”を解体してしまったのでは、そこに棲んでいる微生物が可哀そう。と言っていました。
土の中の住民がいなくなるので土が痩せていくのです。土壌の生態系にダメージを与えてはいけません。なるべく草木や腐植で覆い、土を動かさない方がいい。
有機物は微生物とセットで効果を発揮し、分解され植物の栄養素となります。良く肥えた土には一握りで約100億(地球上の人口と同じくらいの数)の微生物が住んでいると言われます。

「不耕起栽培」が一番理想的な、生き物を大切にする栽培方法なのだということです。その理由はわかりましたね。

ただ、野菜はそこら辺に生えている(適地適作?)雑草のように自立している強者ではありません。人間都合によって改良され、アンデスの山奥や世界各地から無理やり連れてこられたり、環境に馴染めない、一人で生きてゆけない、競争に勝ち残れない弱者です。いわば、障害者と同じように“支援”を必要とするものたちなのです。ですから植付けの際、根が張りやすいようにその周囲だけ除草したり、部分的に耕したり(部分耕:生態系を崩すほど耕したりしません)、必要に応じて「ボカシ肥」を入れたり(栄養補給)します。でもあくまでも“支援”というレベルです。生きるのは野菜自身の生命力ですし、他の生き物との共生も大切です。みんなで生態系の活力を高めてゆかなくてはなりません。それがひいては野菜自身の持続的な成長につながります。
なんだか、人間の話しをしているようですね。生き物であることに変わりはありませんから。「自然の理」に沿うということなのです。


「分離」ではなく「共生」です。人も野菜(植物)の社会もノーマライゼイションの考え方は同じです。つながりあって共生する方が、強くて健全なのです。

  

草と虫も大切

都会の人(農家さんの中にもいますが・・)は、雑草と虫が嫌い、土に触るのがいやな人が多いです。街中はコンクリートとアスファルトで隙間なく覆われていますし、わずかでもアスファルトの隙間から雑草が生えていたり、虫が飛んでいようものなら目の敵のようにします。そして、土が手につくと「バッチイ!」と言い(そもそも、素手で触らず手袋をしなさいと言います)、すぐに「手洗い」「消毒」と言います。

※ しかし、土は枯葉や死骸、ゴミなどを分解する「清浄」の根源です。微生物はバイ菌ばかりではなく自然界の「掃除屋」なのです。

都会の生活に疲れ、緑を求めて郊外に出ても、そこでも同じようなことをしている方がいます。畑では除草剤をまき、根こそぎ雑草をやっつけ、土壌を殺菌し、虫がでたら殺虫剤をかけます。人に対してではありませんが、自然界に対して殺戮を繰り返しています。
現代人の雑草嫌い虫嫌いは染みついているようで、有機栽培を謳う農家さんでさえビニールマルチを全面に敷き詰め、草をシャットアウトしている方がいます。「黒マルチ」の効果は私もよく知っていて、場合によっては使用します。除草の手間が省け、害虫もある程度抑えることができるし、何よりも保温・保湿効果は抜群です。でも、ビニールマルチに頼りっぱなしでは、土が呼吸できません。草や有機物はどうやって土に返るのでしょう。長い目で見ると土は痩せていきますし、その分、有機物をどこからかもってきて補充しなくてはならなくなります。

土にフタをするということは、生態系のつながりを遮断することになりますので、本当の意味での「有機」栽培にはなりません。土づくりにおいて大切と言われている微生物は草の根の周囲に多く生息し、植物と栄養のやり取りをおこなっています。除草は草の地上部だけ刈って根は残した方がいい。そして刈った草は畝の上に寝かしておけばいいのです。
雑草も草、野菜も草。」農業は草をどのようにコントロールしてゆくかと言うことです。

※ 土がむき出しで日照りにさらされると痩せてゆくので、そんなときは有機物でマルチ(草マルチ)を行ったり、草生栽培にチャレンジしてみましょう。

農家さんの中には、「畑に草を生やしていたらカッコ悪いわ」「人に笑われる」と言ったり、「雑草に栄養をもっていかれる」「損をする」と言います。確かに一時的にはそう思われる面もあります。野菜は弱いので支援が必要です。でも長い目で見れば共生して、地力を高めた方が効果が上がります。ノーマライゼイションもはじめのうちは偏見の目で見られたり、バッシングを浴びたりします。本当のこと、あたりまえのことを言うのは、実は勇気がいるのです。(自己中心的な欲に逆らうことになるからです)

単純に考えてみれば、木々の生い茂った山と裸の岩山とではどちらの土が肥えているでしょうか?
草が生い茂る草原と草の生えない荒れ地とではどちらの土が良いでしょうか?

ちょっと物々しい言い方ではありますが、樹木には「自己施肥システム」と言うのがあるそうです。自分の足元に枯葉を落としそれが再び栄養となるということです。草や有機物はすべて土に返れば微生物によって分解され、それが次の生命の糧となるのです。
みどりが土を作り、土が緑を生かす。この循環が農業の基本なのです。

ミミズが教えてくれたこと

「土づくりの三役」と呼ばれているのが、草の根・ミミズ・微生物の三者です。この三者は、生態系の中で偉大な働きをしています。
人間はいかにも自分が野菜を作っているように言いますが、野菜は人間から生えてくるものではありません。(わきの下からニンジンが生えてきたり、股の間から大根がでてきたらすごいと思いますが・・・笑)実際は、野菜は土から生えてきて、土の栄養を吸収して大きくなるのです。
人間は栽培プランを立て、種をまき、野菜が育つのを手助け(支援)しているだけです。野菜は自然の恵み、生態系からの贈り物(生態系サービス)なのです。自然に対しては謙虚であるべきです。

私は最近、ミミズから教わったことがあります。
私の子どもは重度の知的障害児なので言語を理解できず、仕事にしても作業にしても自分のやっていることの意味がわかりません。なぜ?という理由もわかりません。だから、「意味の分からないことを無理にさせるよりも、本人がやりたいことを好きにやらせていればいい。」しかたないと思っていました。
しかし、ミミズを見ていたらどうでしょう・・・
ミミズには手足がありません。地面を這っているだけです。目も見えていません。言葉もわかりません。脳みそがあるようには見えません。療育手帳で言うならばトリプルAでしょう。毎日、落ち葉や腐植を食べては糞をしていきます。
ミミズは1日に、自分の体重かあるいはその1.5倍の量の糞をすると言われています。1反(1000u)に1万匹のミミズがいるとしたら、そのフンの量は年間3トン近くになります。ミミズの糞は「黄金の土」。ライフワークとして30年以上ミミズの研究をしたダーウィンは「ミミズの糞土ほど優れた腐植はありえない。」とし、「地球に最も価値のある動物」と称賛しています。ミミズがいると畑の土はどんどん肥えていきます。ミミズは土づくりの名手なのです。
でも、当のミミズ君にはそんな自覚はなく、理由も意味もなにもわからないままに、“生命の輪”の中で自身の役割を果たしているだけなのです。

すべての植物や動物、人間も、土に依存し、土から生命の糧を頂いているのであり、その土を作っている名手がミミズであるとするならば、ミミズを馬鹿にできるでしょうか・・・
私が何を言わんとしているかはおわかりですね。

人間も障害があろうとなかろうと“生命の輪”の中に参加し、本来の役割を果たすことを考えればいいということです。何が人間の役割ですかって? それは大きな宿題です。(あとでヒントをお教えしましょう)
ミミズの話しですっかり長くなってしまいました。

生命の輪と自然の理

「ナーンツィゴンニャ〜〜、ババギッ、チババーァ♪」の掛け声からはじまる、ミュージカル「ライオンキングのテーマソング「サークル・オブ・ライフ」生命はめぐる〜と、ジャングルの生態系と食物連鎖のことを歌い上げています。

日本の森林における生態系や、有機栽培で実現しようとしている生態系は、植物(生産)・動物(消費)・微生物(分解)というそれぞれ役割を担う生命体と、それをとりまく環境全体を指し、そのつながりと循環による共生・共存、一つの持続的な生命の共同体のことを言っています。それは、小さなビオトープから、畑、地球全体にも拡大して解釈することが可能です。
「生命の輪」とはお互いがお互いを必要として、つながりあって共生する。深く大きな意味があるのです。

地球の環境問題、eco活動も、つきつめれば地球レベルの生態系をいかに維持し高めてゆき、より多くの生き物(人間を含む)が共生し、快適に暮らすことができるようにするかと言うことにつきます。
「地球サミット」で定められた二大条約もそのためのものと言っていいかもしれません。気候の変動を一定の範囲内に抑え、化学物質の使用や生物の移動を制限し、生物の多様性(生命力)を維持するということ。環境を守るのは“生命の輪”を守ること、そこに生きる全ての生き物のためなのです。
人間は人間だけで生きてゆけるものではありません。「生態系」を維持することに、地球の未来がかかっているのです。

そして、私にできることは、障害者とともに「小さな共生のモデル」(農福連携のモデル)を作ることと、生きることに関する「メッセージ」を発信することではないかと感じています。

生態系の中に見る「三つの真理」

@ 多様性とバランス
全ての存在には意味と役割があり、価値がある。多様性は力。多様性とバランスによって健康は維持され、繁栄してゆく。多様性を認める社会がノーマルな世界。これは自然界でも人間社会でも同じ。(ノーマライゼイション)


A 生態系の繋がり
単独で存在しているものはない。繋がり合って生きている。(人も一人では生きてゆけない)
自然界は「生態系」を築いて共生している。
存在には意味があり、「役割」がある。共同体の中で貢献し、役割を果たしながら生き甲斐を感じる。自然界も我々人間も、繋がり・関係性の中で生かされている。
人間の細胞は60兆、人間の中に棲む微生物は100兆を超える。人間自身が生命の集合体であり(固体内の生態系)、微生物と共生することによって個性や人格を形作っている。


B はじまりは愛
関係性の中心には愛があり、それゆえ一つになりえる。
愛があり、目的があり、理想があるから一つになり調和する。
愛の行き着く先(ゴール)は、喜びと幸福。一つの共生圏・共同体を築く。それが天国と呼ばれるものかもしれない。福祉の目的と同じ。
「はじまりは愛」、それを信じている限り、私たちには希望がある。

「存在」がなければ、関係が築けない。「関係」がなければ愛も生命も生じない。
「愛」がなければ一つになって喜びに至るという共生圏(天国)は生じない。
だから、「存在」を大切にしなさい。他者に関心をもち、「汝の隣人を愛しなさい。」(聖書の言葉です)

もう一つの内なる輪(愛の輪)

以上のように、自然界には自然の理があり、生態系と言う「生命の輪」の中で共生しています。
でも、大きな疑問は、なぜ「存在」は存在しているのでしょう?
そして、なぜいろんな個性をもつ多数の存在が関係性をもち、つながって一つになり調和することができるのでしょう?なぜ自然はこんなに美しいのでしょう? なぜ「輪」というものが成立するのでしょう?

そこには、中心となる大きな愛があり、目に見えないもう一つの「内なる輪」があるような気がしてなりません。深い内面の世界においては、すべてのものが繋がっている(通じ合っている)ような気がします。
超一流のプロ農家さんは、野菜や作物に対して語りかけ話をし、心の中で通じ合っています。(ちょっと変人のように思われがちですが)
心の奥底の声は通じるものなのです。人にも、草木にも、神様にも・・・・

全てをつかさどっている宇宙の根本にあるものには、「愛」というものがあるのかもしれません。
つながりを生み出しているのは「愛」です。愛から始まったものだから、一つになり、調和し美が生まれるのです。

自然界の美しさや、人間の心の優しさは、偶然が重なりあった単なる進化の結果だとは考えられません。
宇宙には何かがあるのです。だから私たちは信じて、生きる勇気や希望、愛する思いが湧きあがってくるのです。そして誰もが心の中に理想(天国)を思い描くことができるのです。
心の宇宙の根本(源)に愛があるならば、地球は輝く「天国の星」となるべきなのです。

人間の「役割」について

そうそう、もう一つ言い忘れていたことがありました。生命の輪の中での、人間の「役割」について、ヒントを出すということでしたね。

人間は光合成することができないので(葉緑素がないのであたりまえか・・)生命体を生産することはできません。ゴミや腐葉土を分解することもできません。ことごとく、植物や微生物に依存し、自然界によって生かされている存在なのです。しかし、知性と心情において「万物の霊長」と呼ばれるほどの高い能力を持っています。他者を愛すること。弱者をいたわることは人間のみができる特性です。(自然界に福祉とか奉仕などという言葉はありません。基本、適者生存、弱肉強食なのです。)

ですから私が思うに、人間は人間らしく「愛をもって生活し、愛をもって自然界を管理する。」これがその役割ではないかと感じています。オーケストラの指揮者のように、自然界にバランスと調和をもたらし、一つの美しい交響曲に仕上げてゆく。そういう役割がカッコいいですね。
そして、必要以上求めず、謙虚に「足るを知る」ことが大切です。

また、障害児・者にとってみれば、みんなに愛されて、畑の中で土いじりをしたり、走り回ったり、泥んこになって収穫を楽しんだり、そうしているだけで意味があると思います。畑で伸び伸びと開放され、自然と戯れている姿はなんとも美しく、微笑ましいものではありませんか? そうした活動の中でも、自然を理解する支援者がいればキチンと野菜は育っていきます。
自然は誰に対しても恵みをもたらすものなのです。そこには愛を感じますね。
賑やかな子供たちの笑い声を聞いて、野菜たちは喜んでいるような気がします。自然は人に呼応して元気を出しているのです。(心のエネルギーを受け止めているのです)

今までの人間は(特に20世紀以降)、自己の欲望が強すぎて、自然界に対して侵略・掠奪を繰り返し、とても優しいとは言えない存在でした。地球環境は危機的状況ですし、多くの生物は瀕死の状態に追い込まれています。「自然との共存」を謳いながら、なかなかそれを成し得ていないのが現状です。ですから、もう一度ecoの本当の意味(生態系について)を考え直し、人間らしい生き方を模索していってもらいたくてこのような原稿を書きました。

日本には、自然と共生する「里山の文化」や「山村の文化」があります。今は過疎と高齢化に悩んでいますが、もう一度その美しさを取り戻し、世界に向けて「和」の心、「共生の文化」を発信して行ければいいですね。

2016.10.23 俊邦父


.