『人と緑のノーマライゼイション』


皆さんは「ノーマライゼイション」という言葉をご存知だろうか?
ノーマルとは普通。いまの世の中はアブノーマル(普通でない)「普通の世の中を作りましょうよ」という運動のことである。この言葉は、障害者福祉の世界でよく使われる。

私の子どもは重度の知的障害者(自閉症)である。だからこの言葉は数限りなく耳にし、考えもしてきた。
障害児・者も同じ人間である。一つの場所に隔離したり、偏見の目で見たり、差別するのはよくない。同じ社会の中でともに生き、共に幸せに暮らすことができる社会つくる。障害者がいることが「あたりまえ」とされる社会。それが「ノーマル」な世界だという考え方である。
この考え方は、障害者の社会参加に大きく貢献してきた。

○ 多様性を認める社会=ノーマルな社会

大切なことは人間社会においても、いろんな人がいる「多様性」を認めるということ。
極端な言い方ではあるが、多様性を認めないということは「差別思想」につながっていく。
「多様性」は自然の理である。自然界は多様性とそのバランスによって、有機的に繋がり合って存在している。多様性を認めない単一の社会は弱々しく、不健全でもろい。
社会においても多様性を認め、格差の少ないバランスのとれた社会が、様々な問題に対処できる強い社会といえるのである。人々の個性を認め、ありのままの姿を尊重し、自由に交流できて、共生する。支え合う社会が理想の社会だと思う。

もう一つ気になることがある。
それは自然界に対する人間の仕打ちがあまりにも残酷で身勝手であるということだ。
タイトルに「緑のノーマライゼイション」と言ったのは、自然界を『緑』という言葉に象徴し、自然に対してもノーマルな接し方をしましょうと伝えたかったからである。

私はその障害者とともに、約5年間、福祉農園に携わってきた。
自然の中で伸び伸びと、健康で安心・安全な野菜づくりをおこないたい、そう思って始めた。
しかし、慣行農業として広く国内で行われている農業をやってみるとなかなかうまくいかないことが多く、疑問も生じてくる。
まずは、機械でよく耕し、化成肥料を入れる、いろんな資材で土を覆い、病気になったり虫が湧いたら農薬をまく。雑草が多くはびこるなら除草剤を使えと言う。園芸店には病気や薬に強い改良された野菜種が販売されている。どれもF1種と呼ばれるもので1代限りしか使えず、種は毎年買わなくてはいけない。
畑に緑はなくなり、土は白く硬くなっていく、ミミズや昆虫の数は少なくなり、小鳥の声も聞こえなくなる・・・本当に機械化や化学肥料・農薬を多用する栽培が良いことなのだろうか?
人々の健康や福祉につながる活動になるのだろうか。

畑は生命を育む場所。緑あふれる、生き物の楽園であってほしい。

2年目より私たちは、農薬と化学肥料を使わず、腐葉土と堆肥を入れ、なるべく自然に近い「有機栽培」を行おうと、自然農や自然栽培を学んでいった。少なくとも「福祉」を目的として活動している我々の農園ではそうしてゆきたいと思った。

このような話は何も今になって始まったことではない。
古くは1962年に発表されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」(DDTなどの農薬の害や自然破壊を訴えた書物)や、日本では1974年朝日新聞に連載されていた有吉佐和子の「複合汚染」などが有名である。その頃から一部の篤農家の手によって、「有機栽培」や「自然農法」など研究が進められていった。

しかし、農業で機械化が進んだり、化学肥料や農薬を多用し始めたのは戦後のことであり、それまでは概ね「有機栽培」や「循環農法」に近い伝統的な自然の営みに即した農業を行ってきた。それが従来の「あたりまえの農業」だったのである。田舎に行けば駅の街灯に虫がわんさとたかっており、近くの小川やため池には魚が群れをなして泳いでいて手づかみでつかめるほどだった。緑は濃く、あたり一面草が生え、土の匂いがしていた。みんな庭先で鳥(ニワトリ)を飼っていた。畑の隅には肥溜めがあり、人糞も肥料だった。

第2次大戦後、爆発的に増えてきた人口に対処する為、食糧の大量生産が求められた、その手段としてとられたのが『緑の革命』と呼ばれる「農業の工業化」であり、大規模化とモノカルチャー(単一栽培)が進められてきた。機械化による農地の拡大、化学肥料による収量の増加、農薬散布による害虫・病気・雑草の除去。そしてこのような化学栽培に適する品種の改良、生産効率化を図るために単一栽培を行う。一見、どれもいいようにも聞こえる。人間にとって実に都合のいいことばかりのようだ・・・でも実際はどうだったのか?

大型機械による耕耘は土地を疲弊させる。耕せば耕すほど土壌の生態系を崩し土は痩せてゆく。
痩せた土地を回復させる為に、化学肥料をばらまけば一時的に作物は肥大するが微生物は死に絶えさらに土地は痩せてゆく。土壌成分が偏ったものとなり生態系のバランスが崩れると一斉に害虫や病気が増える、そして農薬(毒薬)をまくと環境は汚染され、生物はみな死滅し、人体にも影響が及ぶ。アレルギーや精神疾患など多くの病気や障害の原因となっていく。品種改良は遺伝子の操作にまで及び、「生命」自体の進化や存続にまで危機がせまっている。人間が全ての自然を支配しコントロールするなど可能なのだろうか?
人間は「驕り」、神の領域にまで踏み入ろうとしている。

人間は自然の一部であり、自然と調和し共存する道を選ばなければ、単独では生きてゆけない。といった「謙虚」な姿勢、生かされていることに対する「感謝」の気持ちが必要である。

○ 緑のノーマライゼイション

「緑の革命」の次に来るべきものは、「緑のノーマライゼイション」だと思う。
農業を本来の生態系の働きの中に戻すということ。人間都合によって強制的に歪め、破壊してきた自然を、自然と仲良く「共生」することを目標に、循環型の農業、自然本来の力を引き出す農業に変えるといこと。「普通の農業に戻す」これが今後なすべきこと、向かうべき方向性だと思います。

その実例としては、無農薬・無化学肥料による栽培、循環型の有機栽培、不耕起栽培、草生栽培、多品種栽培、そして究めれば自然農・自然栽培といった自然農法も可能だということです。ケースによってある程度はやむを得ないと思いますが、なるべく農薬を減らし、毒性の低いものとし、なるべく自然の生態系に即した栽培方法をとることの方が無難なのではないでしょうか。

有機栽培を実践されている方の中には「戦争はまだ終わっていない」と言われる方がいます。
人々に降り注がれていた爆弾の原料は「窒素肥料」として畑に撒かれます。ベトナム戦争で住民を苦しめ植生を破壊してきた枯葉剤は「除草剤」に姿を変えました。残酷な無差別大量殺害を試みた「毒ガス兵器」は改良され農薬として畑と土壌に棲む生き物を無差別に殺害しています。
人に対して仕掛けられた戦争は、いまだに自然界へと向けられているのです。

ちなみに、林業においても近年、生物の多様性は重視されており、より健全な森林の生態系を造成する為、天然林を保全し、人工林においても間伐などの手入れを進め林床の植生を豊かにし、皆伐はなるべく避けたり、スギ・ヒノキばかりではなく広葉樹との混交林を広めたりする動きもみられます。単に材木をとるだけを目的とするのではなく、森林の多面的機能を重視するという考え方が広まっているのです。

このように見ていくと、人間社会も農業も林業も自然世界も共通点・共通の課題が多くみられることがわかります。(「自然の理」にそぐわないことをしてもダメだということ)調和・共生すること、多様性(個性)を尊重すること、生命の営みを大切にすること(自然の循環・生態系のバランスを大切にすること)、愛情をもって他者を見ること、必要以上は求めない「足るを知る」こと、生かされていることに「感謝」すること、など・・・このようなことを思いながら、精一杯与えられた命を生きていくこと、こういう「生き方」が大切なんだと思いました。

最後に、障害のある子をもつ親として書き加えておきたい。

わが子が障害を持って生まれるということは、親として大変つらいことである。
何とかして「原因」を突き止めて治してあげたいとも思う。
でも、自閉症の原因はまだわからない。治療の方法もない。
「療育」を行って、なんとか生活が楽になるようにするくらいなもので、なすすべもなくあきらめて受け入れているという現実がある。

私は、人と自然についてずっと考えてきました。
ここからは私見(推測)でしかありませんが・・・

やはり多くの障害や病気は、環境因子、自然に対して行ってきた人間の破壊行為、化学物質による汚染、不自然な環境や生き方、そしてその遺伝による蓄積などが原因しているのではないかと薄々感じています。(半分以上はそうではないでしょうか)
だって、人間のしていることはやはり異常で、自然の理に反することが多いのですから・・・

○ 人間は生命の集合体

人間は「生命の集合体」です。人間自体の中には自己の細胞の数より多い微生物がすんでいます。
しかし、土を否定し、自然から遠ざかる人間には、微生物との良好な関係を築くことなどできません。そして化学物質にまみれ、農薬(かつて毒ガス兵器や枯葉剤として使用されてきた毒素と類似する物)・化学肥料(爆弾の原料)によって栽培される異常に改良(雄性不稔によって改良されたF1種・遺伝子組み換え作物など)された食物を食べています。住んでいる場所に緑は少なく、コンクリートに囲まれた中に住んでいます。

※農薬の中にはかつて水銀や重金属を多く含むものもありました。土壌の中には分解されない化学物質や重金属が蓄積されている可能性があります。最近の学説の中には、発達障害は母親の腸内細菌の減少が影響しているという説もあります。

自然破壊・環境汚染は異常なレベルにまで進んでいます。
耐性のある丈夫な人には現れないかもしれませんが、敏感で複合的に異常因子が体内に蓄積された場合には症状として現れてきてもおかしくはありません。
学者や専門家は因果関係が明確に証明できなければ悪い(原因だ)とは言いません。でも、そうでないという証明もできません。無数の化学物質による「複合汚染」、その歴史的蓄積(遺伝を含む)となると誰にもわからないのです。推測の世界でしかありませんが、良心によって感じとり判断すべき世界なのかもしれません。

○ 人としてどう生きるかは、その人の「良心」が決めること。

私は、人にも自然にも優しい世界を築いてゆきたい。自然と仲良く共生したい。その中で「自然の理」に沿ったノーマルな(普通の)生き方をしてゆきたい、と思っています。ですからこの度、少々突飛ではありますが「人と緑のノーマライゼイション」という題で稿を記してみたのです。

人知の及ぶ世界などまだまだわずかなものです。最終的な答えは神のみぞ知るのでしょう。
ただ「謙虚」に心の声に耳を傾けながら。
心の喜ぶ、できることをしてゆこうと思います。

2016.3.20 俊邦父