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愛を知る人
~逆転の人生を歩むには~

〇 本当の宗教
人は何処までも本当の宗教を求めてゆかなくてはいけない。
どこまでも真の愛を、真の慈悲を追求してゆかなくてはいけない。
イエスが教えているのは、敵さえも愛する愛である。仏の慈悲心は悪人さえも摂取する慈悲なのだ。
無償の愛であるということは、無償で許すことをも意味する。「やられたらやり返せ」と復讐心をあおっているようでは偽者なのだ。それは自分の思い、人間の域を出ていない。(解決にならない)
神はそうでない。人が敵だと言っても、神にとっては我が子なのである。神の愛は無償の愛であり、許す愛なのである。だが、人は自分の思い(感情)からなかなか離れられない。そう簡単には乗り越えることはできないのである。ただ、より大きな悲しみを前にした時にのみ、自分の悲しみを乗り越えることができるのだ。だから、神様の心を知り、神様の大きな悲しみ、仏さまの「大悲」を知ることによって、自分の思いを乗り越えることが可能になる。悲しみよりもより大きな愛があることを知って、救われるのである。
「戦争反対!」と口で言うのは簡単だが、だいたい戦争が起こっている国の背景には、身内を殺されたとか、家財全てを失ったとか、侵略に脅かされているとか、理不尽なことだらけで、とてつもない恐怖と恨みを抱えているのである。同じ立場に立って、同じことが言えるだろうか。それを乗り越えて他者(恩讐)への愛を語るというのは容易ではない。その真っただ中においてはむしろ報復する、戦うということの方が正義であると感じられるのではないだろうか。
本当に深刻な病気や障害、精神疾患や引きこもりなど、当事者や家族にとってはその悲しみ(不幸な状況)を容易に乗り越えられるものではない。極めて困難な立場におかれている人たちはいるということである。愛を語るどころか、近づくことさえ難しいものである。
苦しみや悲しみを知らない、恵まれた人たちには彼らを救うすべがない。かける言葉すらない。悲しみには、ともに悲しむ人しか寄り添うことができない。悲しみのみが救いなのである。人を救うということは、(きれい事ではなく)悲しみの中に身を置くということなのである。だからマリア様は、悲しみのマリアであり、観音さまは悲母観音となるのである。愛は悲しみをともなうものなのです。
不幸や不運にばかり遭遇していて、呪われたような人生であるにもかかわらず、なにかを転機として心を外に向け、その悲しみゆえに人に寄り添い、人を愛する。そういう道を歩まれる方もいる。
悲しみは神(仏)に通じ、神仏を引き寄せ、不思議と愛や慈悲の心を抱くようになることがあるのである。神は悲しみを知っているのである。大悲の神(大悲の仏)なのである。
悲しみに身を置くことができるのか。その勇気があるのか。その悲しみに価値を見出すことができるのかということになる。愛が問われているのだ。

〇 自己否定の道
恵まれた人が感謝して信仰を持つ。それが当たり前のことのように思われるが、そうとも限らない。
恵まれた人生、いいと思うことが多いと、それが裏目に出て、人のことを気に留めることのない慢心した自分を創り上げてしまう。逆に、不運で悪いと思っていたことが最も貴いものを手にする結果をもたらすこともある。逆転の人生とはあるものなのだ。
自分の思いでは救われない。越えられないことがある。神様の心に立つことによって癒され(自分の思いから解放される)、恩讐を越えて愛するという道が開けるのである。神にとっては人類すべてが我が子である。我が子が殺し合う姿を見て悲しみでいっぱいのはずである。その悲しみが我々にとって救いなのである。
愛ゆえに悲しむ、神の悲しみと、より大きな愛を知ることによって、自分の思い(恨み)を乗り越えてゆくことができる。無償の愛、許す愛が生じてくるのである。
仏さまの慈愛を「大悲」と呼び、それを貴び、そこに救いを求める民衆の心も同様である。
自分を無くす、自分のものをすべて否定して神に帰す。神のもとから再出発するということは難しいことなのである。
自己中心な人は「我」が強く、所有欲が旺盛なので、人に与えるという愛に切り替わるためには、自己否定の道を歩まなくてはならない。元来、(自分自身でさえ)自分のものではなく、神のものである。神のみ心のままに用いられなくてはならない。そう気づくのは容易でない。否定される中で本物が見えてくるのである。砕かれた心をもつ者のみが神を見るのです。
否定の道がどういうものか、その代表的なものが、旧約聖書に登場するヨブが歩んだ道である。
ヨブは試練に遭い、悲惨な可哀そうな人生を歩んだ。
しかし、その最後は違った。彼は神を抱く者となり、富める者となっていった。

〇 ヨブ記に学ぶ
皆様は、旧約聖書の中にある「ヨブ記」というのをご存じだろうか。
ヨブは悪魔の試みに合う。
家および家畜などすべての所有物を撃たれ、息子や娘、しもべたちに至るまで殺された。
ヨブは起き上がり、上着を裂き、頭を剃り、地に伏して拝し、そして言った。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の名はほむべきかな。」彼は、神に対して愚かなことを言わなかった。
次に悪魔は、ヨブ自身の体を撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中に座った。
その時彼の妻は、「神を呪って、死になさい」とまで言った。
しかしヨブは、「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか。」と言い、そのくちびるをもって罪を犯さなかった。
しかし、そんなヨブも七日七夜地に座して苦しみ続けたのち、ついに耐えられなくなって、恨み言をすべてぶちまけてしまった。「私の生まれた日は滅びうせよ。」「なにゆえ、私は胎から出て、死ななかったのか。」と言って、生まれてきたことを悔いた。その後、ヨブ記には延々とヨブの恨み言と、それをなだめるエリフの詩が続いてゆく。
すべての声を神は聞いておられた。
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。」
神はヨブを諫められた。
ヨブは言った。「今わたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしは自らを恨み、ちり灰の中で悔います。」
悪しきことは人の罪がまねいたことである。(神に転嫁すべきではない)
ヨブは悔い改めて、神に祈った。主はヨブの祈りを受け入れられた。
主はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれた。
ヨブ記は、神を疑うことなく、信じ続け、神を讃えることの大切さを教えているのである。
彼は不幸な現実よりも、神の心を信じたのである。
ヨブ記の教えは深遠である。
試練の時こそ、人が人としての真価を発揮できるときなのだ。(安易な道は誰でも歩める)
馬鹿のように思われたとしても、ただ信じ、ただ愛すればいいのである。それが人として尽くすべきことなのである。そして、サタンが屈服するまで主を讃えつづけよう。
自分が造ったものなど何もない。だから最後の最後まで神を讃え、「愛」であることを示そう。
戦争が立て続けに起こり世界が分断される。地球環境が破壊され、気候変動や地震・災害が相次ぐ。
政治が乱れ経済も破綻し、貧困と格差が生じ、病気と障害が蔓延する。人々は信仰を失い混沌とした泥沼の中で生きている。青年たちは未来に希望が持てず絶望に瀕している。
この先どうなるかわからない。希望のない世の中ではあるけれど、私は神にゆだねてゆく。
神がだめだと言うまでついてゆく。神がもう駄目だと言うなら、それは仕方がない。もともとこの世界は神が造ったものなのだから、終わりにするとするなら神が終わりにするだろう。(神のみにその資格がある)人がとやかく言うべきことではないのだ。神が与え、神が奪い取ったのだ。人はただ信じて、愛を尽くすのみである。

〇 悪魔とは・・
サタン(悪魔)というのは、もともとそのような生き物がいたわけではない。二元論ではない。
人の心が神から離れ、自己中心となった時に、悪魔のような(すべてを奪い取ろうとする)欲望にかられサタンとなるのだ。愛を失い、自己中心になったことにより生じるものなのである。
だから、サタンとは誰かを指すのではなく、自分を含め、心の中にある自己中心な思いが、サタン(悪魔)の種なのである。その思いに取りつかれた時、誰しもが悪魔になりえるのである。
愛を失った時点で、誰しもサタンになりえる可能性があるということです。
しかしまた、神の悲しみを知り、神の愛を知ることによって改心したならば、自己中心な思い、悪魔は消えてなくなるのです。
また、完全な悪魔とまではいかなくても、表向きは善良で、内側に悪魔的な欲望を抱えている。表に出していない人もいる。そんな人は普通の人とみなされる。そういう隠れた悪魔的傾向の強い人(悪魔的な人)も大勢いる。そのような要素、落とし穴が自分の中にもあるのだということを忘れてはいけない。
だから、悪魔とはどこか遠くにいるものではなく、神から離れ愛を失ったことによって生じる、自己中心的な思いが突端なのだから、自分の内から生じるものなのだと知らなくてはいけない。
人をサタンだと言って攻撃する前に、自分自身を顧みなくてはいけない。闘いの最前線は、自分の心の中なのだ。私であっても、一つ間違えば悪魔になりえるのだと知らなくてはならない。自分との闘いなのである。
悪魔的な要素は自分の中にある。まず自分の目から針を取り除かなくてはいけない。
マタイによる福音書 7:1-11
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

〇 聖テレーズ
「愛を知る人」というタイトルを聞くと、カトリックの信徒ならすぐに思い浮かべるのが、聖テレーズではないでしょうか。
本名 テレーズ・マルタン、1873年1月2日(俊と同じ誕生日だ!)フランスのリジューに生まれた。
彼女は無名のまま修道院において二十四歳の若さで静かに人生を終えている。
しかし、彼女の残した『自叙伝』は、35か国語に翻訳され、世界中に広まっていった。
神が彼女を愛し、その信仰を良しとし、その言葉を残そうとされたからです。
1925年、列聖式が行われ、教皇ピオ11世は彼女を聖女として認定しました。また、ヨハネ・パウロ2世はテレーズを「愛の知識の専門家」と呼び教会博士とし、信仰の模範であると宣言しました。
1940年には、毎日のように数えきれない感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到したと言います。生前「バラの雨を降らせましょう」と言っていた通りになりました。
「信頼と愛の小さな道」が、無名だった彼女をこれほどまでに有名にしたのです。
テレーズは言いました、「わたしたちを愛である神へと導くのは信頼、ただ信頼だけです」と。
「イエスさまが望まれるのは、私たちの小さな努力、たとえば一つのほほえみ、親切な一言・・・小さな事柄への忠実さです。」「価値があるのは愛だけです」と言います。
そして、愛することを、ご自身の『天職』であるとされたのです。
1896年、肺結核を患い、何度も喀血して、長く闘病生活が続きました。
「神さま、私は信じます!天国があるということを宣言するために、私は血の最後の一滴まで流し尽くす覚悟でいます。」と祈ったと言います。そして、テレーズは1897年9月30日、二十四歳の若さで亡くなりました。
聖テレーズは、それまでのどちらかというと堅苦しい伝統や儀式が先行する重くて暗いカトリックの信仰に、「愛と信頼」という本来あるべき信仰の本質を蘇らせ、明るい内的刷新をもたらした人なのです。だから、世界中の人に慕われているのです。
教皇フランシスコは旅行に行く際は、常に小さな黒いバッグの中に愛読書の小さきテレーズの本を入れて持ち歩いていたと聞きます。それほど愛されていたのです。
そのテレーズが亡くなった年から数えてちょうど百年後、1997年に(同じ誕生日に)俊が生まれたことになります。なぜか、勝手に私は親近感を覚えてしまうのです。
この子を通して、愛を証しすることができたらいいのに・・・と思うのです。

〇 愛を知る人
私たちは、神様仏さまの近いところにいる。
神は悲しみの多いところ、愛のあるところにおられる。
仏さまは、慈愛を必要としているところにおられる。
神は愛であり、仏は慈悲である。
障害のある子どもたちは支援を必要としている。愛を必要としている。
その親である私たちは愛さざるを得ない立場にある。自分を捨てて無条件で愛さなくてはならない。無償の愛が要求される。自分のことは置いてでも、子どものために必死である。(自分の生活を犠牲にしてきた)また、子どもとともに悲しまざるを得ないところにある。悲しみとともに常に愛する立場にある。神と一致する条件が整っている。
「健康な人に医者はいらない。」とイエスは言う。
ルカによる福音書 5:31-32
イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
イエスは貧しい人、悲しんでいる人、病んでいる人とともにいた。
マタイによる福音書 5:4
「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」
悲しみと、愛しみと、美しみ、はみな「かなしみ」と読む。共通点があり、同じところに生じる。
神は悲しみのあるところにおられる。だからそこは、愛となり、美となりえるのである。悲しみと愛と美は同居しえるのである。
一見不幸に見えるかもしれないが、我々の人生ほど神に近い人生はないのではないだろうか。
だから、天国では恵み多き人となれるのである。“愛を知る人”となれるのである。
愛を知ることができたのは、この子のおかげかもしれない。だから、子どもとともに天国に入れるのである。
愛を知り、自分も愛となるのである。
マタイによる福音書 6:34
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
今日を精一杯生きればそれでよい。イエスはそうおっしゃるのです。
本当に大変な人は、明日のことなど考える余裕などない。今日一日なんとか無事に終わることができた。明日のことはわからない。そのまま疲れ果てて、倒れるように眠るのである。一日一日の闘い、それがずうっと続いていくのである。人生とは一日一日の繰り返し、その積み重ねである。その日一日、精一杯やれるだけのことをやる。
神がともにあるのだから、明日のことは神にゆだねればいい。
お目出たいと言われてもかまわない、「信頼」があれば、幾分かは不安が和らぐのです。神は誰かを使わしてくださる。仏はなんらかの縁をもたらしてくださる。人を大切にし、出会いを大切にすればいい。自分一人だと思わないことである。
大切なことは神(愛)がともにあるということだ。それを信じ、常に意識しておこう。
自分の情欲を満たすための、お飾りのような愛ではなく、相手の幸せのために、悲しみによりそい、苦しみを共にする、心を尽くし貧しくても与える、「本物の愛」を求めるべきである。
自分が正しいと思い込み、自己主張し対立するような自己愛ではなく、みんなのことを思い、受容し、融和をもたらす。美と調和、平和をもたらす愛でなくてはならない。
苦労や悲しみを通過してこそ、救いがもたらされ、本当の実りがもたらされる。誰も取り残すことのない幸せな天国が実現されるのである。(天国とは、多くの人が苦しみのままで、恵まれたものだけが救われるという世界ではない。)

〇 神を信じてこそ
神さまを信じてこそ、この世に愛と慈悲という存在があると信じてこそ、悲しみや苦労に意味が生じてくるのである。愛のためであるがゆえに悲しみに価値が生じるのであり、苦労が貴く思えるのである。
もし、愛も何もない世界ならば、苦労はただの無駄苦労であり、悲しみは不幸なだけでしかない。
生きてゆくこと自体が単に辛いことになってしまう。すべては虚しいということになる。
すべての価値の転換が成し得るのは、愛ゆえである。事実そうである。
愛ゆえに天国へと帰結するのであり、救われるのである。
(仏さまの慈悲があるがゆえに、浄土が存在しえるというのも同じである。)
だから、私は神を信じる。信じざるを得ないのである。
神が愛でなければ、否定的な人生が肯定になる価値観の逆転などありえないことなのである。
あるものすべての本質をよく見れば、そこに愛があるのである。
宇宙や自然界を見れば偶然とは思えない美しさ(神秘)がある。食べ物もおいしい。
愛がなければ存在しえないのである。愛はあるのである。
ハッピーエンドの背後には常に愛が働いている。
確かに愛がある。そこから信仰が始まるのである。テレーズが言うように「信頼」なのである。
イエスもそのように証しされた。
愛というものがあり、そこに生きるという選択肢があり、愛ゆえに生じる喜びの世界があるとするならば、それを選び、そこに生きようと思うのである。
苦労したあなたにしか救えない人がいるのである。(あなたの人生は捨てたものではない)
愛があるから人も自分も救われる。苦労が価値を有するようになるのである。
悲しみが慰め(癒し)となるのである。
神は愛である。その神は悲しみの神である。ここからすべての救いが始まるのである。
2026.4.5


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