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願(がん・ねがい)

先日、ふらりと古本屋に立ち寄ったところ、梅原猛の本が目に付いて一冊買ってみた。
私はよく古本屋に行って、こっそりと宗教本のコーナーをのぞいたりする。(怪しい人と思われるかもしれないが)Amazonで本を買う時も、中古で安く手に入る場合はそちらを選ぶ。思わぬ出会いや掘り出し物があったりする。
今回は、「仏になろう」と題した梅原猛先生の授業の本を見つけて読んでみた。
梅原先生の本は40年くらい前、藤原不比等に関する本を読んだような気がする。下手な推理小説よりも面白く、思わぬ論理展開や洞察にワクワクしたものだ。あとで知ったことだが、梅原先生は仏教に関しても造詣が深いようだ。
「梅原猛の授業」というシリーズは、学生諸君や一般の人にもわかりやすいように書かれている。
仏教とは、いろんな宗派や経典があるが、つまるところ「仏になる」ことを教えているという。スパッとそう言い切るところが梅原さんらしいところである。
一言で言うと、仏教とは結局、「仏になる」ことだ。そうおっしゃいます。
日本に仏教が定着したのは聖徳太子のおかげだそうです。
仏教精神に基づいて十七条憲法を制定した。憲法にいきなり仏教の教えが書かれている。
「和を以って貴しとなす。」「篤く三宝を敬え。三宝とは佛・法・僧なり。」
我々は平和主義である。仏さまと、お坊さんと、その教えを大切にしなさい。と言っているのである。これが古くから伝わる日本人の精神です。
晩年、太子さまが口癖のように言っていたのが、「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)という仏典の言葉だったそうです。意味は、悪いことはしてはいけません、善い行いをいたしましょう、ということです。
日本人の道徳心の多くは、仏教によって育まれました。1500年間培ってきた日本の宝である。
しかし、明治維新の後、新政府は富国強兵を目指し、廃仏毀釈、神仏分離を行った。そして教育勅語により、千年以上日本人の心を培ってきた仏教の道徳心が公教育から締め出されることとなった。国民に強要されたのは修身道徳であり、儒教に基づいた「君に忠、親に孝」という道徳です。優先されるのは「忠」、戦争がおきたなら天皇陛下の為に身を捧げなさいという教えです。国を強くするためにそうせざるを得なかった。 でも敗けてしまった。
戦後、GHQにより、その修身教育も禁止された。
日本は新憲法が与えられ、民主主義はもたらされたが、宗教は白紙のままである。無神論の方も多い。ただ信教の自由は認められている。(雑多な宗教が混在し、偏見もある)
梅原さんは、仏教道徳の再興を願っておられる。
戦争で死んでいった兵隊さんたちは、表向きには「天皇陛下万歳!」ですが、心の中では「お母さん」と叫びながら死んでいった。それが自然である。お母さんは観音さまなのです。その信仰にもどりなさいとおっしゃられます。

仏教では、まず「十善戒」という戒めを守り、悪を締め出したうえで、「六波羅蜜」という徳を身につけなさいと教える。戒律を守って、徳を身につけてこそ仏になれるのだと言うのです。できる出来ないは別として、まずはそうしようと思わなくてはいけない。
『十善戒』・・・・十の善き戒め(してはいけないこと)
不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見、の十の戒めです。(モーセの十戒と重なるところがあります)
第一に挙げられる、特に重要なことが「不殺生」、殺してはならない、ということです。
人殺しの最たるものが戦争です。仏教は徹底的に平和主義です。
そしてこの「殺してはならない」という掟は、人間のみに限らず、生きとし生けるものを殺してはいけないということであり、生態系を破壊する行為を禁止し、環境破壊を防ぐ思想でもあります。もちろん核兵器に反対する教えでもあります。
あとは、人のものを盗んではいけない。不倫や淫行はいけない。嘘をついてはいけないといった戒めが続きます。「清さ」を保ち、「正直」でありなさい。と教えるのである。昔の人は子供のころからお母さんに「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれますよ」と厳しく戒められて育ちました。
親鸞は妻帯に踏み切りましたが、性欲に関してものすごく懺悔した。性欲を制御(コントロール)し、愛の目的にのみ用いるべきです。

『六波羅蜜』・・・・なすべき六つの徳
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、の六つです。
特に重要なのは一番目の「布施」、これは明らかに利他行です。
施すべきものには三種類あります。物(お金)を与える、真理(仏の言葉)を伝える、愛を与える。
単に物を与えるだけではありません。「財施」(寄付する)だけでなく、「法施」(教えを説く、仏の言葉を伝える)もあり、「無畏施」恐れを取り除くこと、安心させること、心を尽くすことも布施となります。
布施とは、報酬なしに与えること、決して見返りを求めない、無償の愛のことを言います。
親の子に対する愛情は、まさに最高の布施であり、慈悲の心、愛の心の顕れです。
この仏教の精神を端的に表しているものが「観音さま」です。だから観音さまは、母の愛と重なるのです。
主要な宗教には、母性への崇拝があります。キリスト教のマリア信仰と同じです。
そして、戒律を守り、辱めに耐え(忍辱)、二宮尊徳のように精進しなさいと教えているのです。仏の心に通じるために禅を行い(禅定)、智慧を身につけなさい、と言います。このような徳を身につけることにより、仏に近づいてゆけるのです。
いきなり仏さま(如来)になることが難しければ、菩薩を目指しなさいと言います。
仏教とは、「仏になる」ための教えです。すなわち、慈愛に満ちた心を持つ人になること、「観音さま」のような人になることを目標としています。それが、人々の幸せや世界の平和につながるのです。
これは釈迦仏教に限らず、大乗仏教も浄土教も、「南無阿弥陀仏」と唱えて仏さまと一つになる。「慈悲の心」を求めたのである。「仏になる」とは仏の核心である慈悲の心を持つことなのです。
ここまで、梅原さんの授業の要点をお伝えいたしました。

〇 「四弘誓願」について
もう一つ、講義の後半は「四弘誓願」(しぐせいがん)について語られました。
衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願学・仏道無上誓願成、の四つです。
①すべての衆生を救おう(度)、②すべての煩悩を断とう(断)、③すべての教えを学ぼう(知)、④この上ない悟りを得よう(証)
生きとし生けるものを救うことを願う
あらゆる煩悩を断ち切ることを願う
仏の教えを学び知ることを願う
無上の悟りに至ることを願う
分かりやすく言うと、このような願になります。
仏さん(如来)になろうとされる菩薩さんは、まず願を立てて、その願を実行することにより仏になります。「四弘誓願」とは、すべての菩薩や仏に共通する願いです。
梅原さんも一つの願いをもって生きてこられたそうです。
実父、梅原半二はトヨタ自動車工業取締役を務め。初代クラウン・初代コロナの開発指揮をとった方だそうです。理系一族で、本人も数学が得意だったそうですが、養父が政治好きで。猛を東大の法学部に入れてのちに政治家、総理大臣にしたいと思っていたそうです。しかし、猛は父に黙って京大の文学部哲学科に願書を出しました。その理由は、「一時の栄華を求めるより、千年の真理を求めたいと思いました」とのことです。
京大には西田幾多郎という哲学の大先生がいて、その学風が残っていた。
西洋の思想と東洋の思想を統合して、独自の哲学を生み出しなさいと言う。だから仏教を学んだ。
どちらかというと梅原さんは、宗教という霊性を極め、祈りの世界へ昇華するものとしてではなく、人としての道徳、哲学(人の生き方・思想)として仏教をとらえておられるようだ。(哲学出身なので、哲学的な理解なのである)それでも、仏教を研究しているうちに、「仏になろう」という願を抱かれたのだと思う。

東洋思想は精神性が高いといわれる。宗教(キリスト教など)は神から与えられた啓示を中心としている。哲学は人間自身が考えた人の生き方である。仏教は人間から出発しているが、仏性(本姓)へと昇華してゆく思想なので、多くの啓示を含み、宗教にも通じる。だから神と人、宗教と哲学の中間位置にあり、橋渡しをしているように思われる。
最近はあまり使わなくなったが、仏の旧字体は「佛」である。
「佛」とは、人偏に弗と書く。弗は“ない”という意味。人でない?どういう意味だろう。
沸騰の沸は、水が湧いた状態。水でなくなる、気体となり浄化するということである。だから佛教とは、人が昇華(浄化)してゆく教えである。だから、天(神)に通じる。本性(仏性)を見出す。
宗教の領域に入ると、霊性によって神仏を感じ取らなくてはいけない。理屈ではない。愛とか慈悲は感じ取るもの、そのような境地に立ち、心の世界を見出すことにある。それは祈りの世界でもある。哲学(人間の考え)とは次元が異なるのである。同じ仏教を信奉していても、哲学的な思索を重視する人と、仏に通じる霊性を重視する人と、二つのタイプがあるように思われる。
今の日本人は無神論の方が多いようなので、いきなり祈りの世界を説いたところで伝わりにくい。(いきなり神さまを持ち出しても信じられない)まずは理論先行で、哲学的に納得させた上で、心の世界を探索するというのがいいようだ。そうしているうちに出会い、感じ取るものなのである。
限界を越え(自分を越え)、飛躍する必要がある。
最終的には、神を知ること、仏を知ること。そして、自分自身が神と一つになり、仏と一つとなり、愛となり慈悲となる。愛(慈悲)に至らなければ、根本的な救いはない。
〇 願い
「願のない人間はつまらない」と言う。
のんべんだらりと生きるのもいいが、なにかになりたいと「願」をもって生きるのは大事なことではないかとおっしゃられる。
阿弥陀さまも法蔵菩薩だった頃、四十八の願を立てられ、その願を成就するために難行苦行に入られた。その中の「第十八願」が、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるというものであり、浄土宗・浄土真宗の「本願」となっている。
生きるためには(有意義に人生を送るためには)、なにかしらの「願」を持っていた方がいいのかもしれない。
それでは、「私の願」はなんだろう?
自分に問いただしてみた。
せっかく生まれてきたのだから、たった一人でもいいから人を幸せにしてみたい。
私には障害のある子供が与えられた。この子を育てるためには、ただただ愛(無償の愛)がなければいけないと思ってきた。しかし、自分には限界がある。それで神さま(仏さま)を求めた。
宇宙の根本に、人を生かすなにかがあるに違いないと思った。
聖書は、愛するものは神を知っている。「神は愛である」と教える。(ヨハネ第一の手紙4:7-8)
神様の愛と一つになること。仏の慈悲と一つになること。それを人々に与えること。
そして、愛となり、慈悲となれた先には、神様を慰め、「幸せの神」となっていただくこと。仏さまの大悲を癒し、「安らぎの仏」となっていただくことである。自分だけではない、神と人と宇宙が幸せになってほしいのである。幸福は愛のもとにある。
悲しみのマリア(世界中の母たち)が笑顔のマリアになるように。やすらぎの観音さまになるように。
以上、大それたことを言ってしまいました。
2026.2.20


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