一と多

~一神教と多神教~

西洋には「一神教」が多い。唯一神を信じる。
神が一つでなければ世界は一つになれないと考える。しかしその神を人が利用すると(自己中心な人の思いが介入すると)、排他的になり、闘争や分裂の原因となり、自分を神とする独裁者を生む。啓示によってはじめられた宗教かもしれないが、それを人間が自分の都合のいいように解釈し利用する人がでる。だから、偽物の神も多く出現する。人々は疑心暗鬼になり、偶像崇拝を嫌い、他者を排斥しようとする。

東洋には「多神教」を信奉する国が多い。多くの神や多くの仏を認める。
他者を認め、共存する、柔和な人々が多い。多様性を認める文化であり、共存は出来るけれど、なかなか一つになることは難しい。だから世界を導く指導力とはなりにくい(リーダーシップは発揮できない)。地球規模の課題に取り組むことが困難である。それぞれが、それぞれの神(仏)を持っている。他者に対しては無関心であり、都合によって棲み分けをしているようだ。人間の側から考えた宗教であるから、そうなることは仕方のないことである。

本当の神を分かっていないということと、人間がもつ性質が宗教に反映しているのだろう。
さて、これをどのように解決してゆけばいいのだろう?

神は西洋人にしか働かない神ではない。神は東洋人にも働いている。
そこには神の意図があるはずである。自分の考えだけを善しとするのは間違いであることが多い。神の意図は深遠であり、人の考えを超えている。私たちはそれを探らなくてはいけない。すべては一つの愛へとつながってゆく。

自己中心であると大きな問題が生じる。これは一神教であろうと多神教であろうと同じだ。

唯一神を信じる人たちは謙虚でなくてはならない。自分が神のすべてを知っているわけではないし、神の愛にまで到達しているわけでもない。自分の知りえているのは、体験しているのは、神のほんの一部に過ぎないのである。
そして、多神教を信じている方は、世界に目を向けなくてはいけない。自分の考えにのみとどまるのではなく、世界へとつながってゆかないと、地球規模のこれからの課題に取り組むことは出来ない。地球一家族世界は築けない。
多様性を認めながらも、一つになれる世界を求めてゆかなくてはならない。

〇 「多」でありながら一つ

もし神が「一」だけの存在ならば、ずっと「一」のままでいればいいではないか。絶対であり続けることができる。
それなのに、なぜ相対世界(二の世界)を築いたり、多様な世界を生み出したりしたのか?
複数存在すると、トラブルのもとになるだけではないか。「一」のままなら何事も起こらなくて済む。
だが、神はそれを善しとはしなかった。(絶対性だけでは満足しなかった)

神は一とか多を問う以前に、その本質が「愛」であったのだ。
愛であるから相対関係において愛し合い、一つになる喜びを得たかった。多様な世界において、調和し、美の世界(平和の世界)を生み出したかった。愛であるがゆえに幸福と天国を求めたのである。

神は、単に「一」というだけでなく、「愛」であったのである。
だから、多様な世界を求め、さらにそれを一つに調和させ、幸せな美なる世界を築きたかったのである。
神はそのような感情を有していた。生きた神だったのである。

そうでなければ、宇宙や人間という存在の、存在する理由を説明することができない。

神は一でありながら、多を求めた。一でありながら「二の世界」を創造した。絶対でありながら、相対をもうけた。
それは、愛し合い一つとなる。喜びと感動、美と調和を望んだからである。

戦争と競争は違う。
オリンピックでも見られるように、競争するのは高め合うためである。讃えられるのは優勝者だけではない。最下位の人でもその健闘をたたえて惜しみない拍手を送る。
ラブビーの試合も、二つのチームに分かれるのは競い合うためである。敗者は悪でもなく、除外されるもの、殺されるべきものでもない。より高みに向かうために競い合っているのであり、試合が終わればノーサイドであり、お互いの健闘をたたえ合うことになる。ラグビーの勝ち負けが戦争(殺し合い)をもたらすことはない。

神は一でありながら多であり、多でありながら一つなのである。
相対に分かれるのは愛し合うためであり、多様に広がるのは、調和し美の世界を生み出すためである。
愛は高め合うために競争することはあっても、決して殺し合いや戦争には至らない。
そうなってしまったのは神から離れて、愛を失い、憎しみを持った人間から始まったことだからである。(憎しみを動機としている)

愛は美と平和をもたらす。

絵の具がもし、白一色であったとしたなら、どんな絵が描けるであろう?
白一色では絵など描くことはできない。いろんな絵の具(カラー)があるから、美しい絵が描けるのである。
多様であるから思う存分愛を発揮し、美を創造できるのである。
神が創造した世界は多様でカラフルで、見事に調和している。それが美しいのである。

神は一でありながら多を求め、多でありながら調和し、一つとなることを望んだのである。
それは、愛だからである。

〇 一なる神と多なる神(一神教と多神教)

世界では長年、一神教と多神教の論争・分裂がある。
欧米諸国のキリスト教では唯一神であり、ユダヤ教もイスラム教も聖書に基づき一神教である。
しかしヒンズー教や仏教、土着宗教は多様な神や仏を祀っている。太陽や自然を神として仰ぐ宗教もある。
どちらが優れているかで論争になる。東洋と西洋の大きな溝にもなっている。
これをどのように理解して受け止めればいいのだろう?

日本人はその文化の中に神仏共に柔軟に取り入れている。不思議な民族である。

私は唯一神を信じるけど、多神も受け入れる。神は多様であろうとしている。一人一人の中に神は存在するのである。自然界においても多様な姿で現れる。これが、一神教と多神教に対する私の答えである。
神は唯一神でありながら、多様な神としてあらわれる。どちらも真実である。

一であるか多であるかを言い争うよりも、神が愛であるという本質を見極めれば、双方を受け入れることができるようになる。一であったり多であったりするのは単なる経過である(表面的なこと)。神の本質は「愛」である。だから一つになりえる。愛があれば「多」であっても一つなのである。

一であるか多であるかという表面的なことではなく、神は一つの愛から始まっている。そこに注目しなくてはいけない。だから、すべてのもの(宇宙)が有機的につながり調和しているのである。一つになりえるのである。その過程においては「多」であっても何らおかしくない。時を切り取ってみれば(一部分だけ見れば)、多であることもある。

愛という本質から見てみれば、常に一つなのである。(一つに調和している)

神は一でありながら多を求めた。一つでありながら相対(二の世界)を求めた、多様性を求めた。それは神の本質である愛を顕すためであり、愛によって一つになる喜びと感動、美と調和の世界をもたらすためである。多様である方が、愛で一つとなった時、調和したとき、より美しく感動がある。

神は愛であるから、多様なものも一つに調和させる。これが神の世界である。
愛に始まり、愛の目的に帰結するのである。

一は一、多は多と、相反するものとしてとらえるのではなく、「愛」であるがゆえに一つであると考えるのです。本当に愛である一ならば、多を包み込むはずである。

〇 三位一体論から見た一つの神

神は一つでありながら多なる神である。その本質は「愛」であり一つである。

これらのことを、カトリック教会の「三位一体」論を例にして説明してみよう。
カトリックでは、神のことを、父なる神と子なる神(イエス)、聖霊なる神と三位をもって現れ、一体であるという。
まず、イエスが祈りをささげた「父なる神」が神であることは間違いない。
同時に、イエスの内に宿る神も神であり(イエスは「我を見し者は神を見し者である」と言った)、「子なる神」と言った通りである。
そして、イエスが復活して信徒のもとに現れたのち、信徒一人一人に聖霊が降って行ったという。この聖霊もまた神の霊であり「聖霊なる神」と呼んでいる。信徒の数はたくさんいる。みんなに宿る神でもあるのだ。(だから見方によると、多なる神であるとも言うことができる)
こうしてみると、神はいろいろなところに現れ、いろいろな神として存在しているのだから、多神教ではないかという意見もある。しかしカトリックは、「一体である」という。同じ神なのである。

人間的な論理(人の目線)では受け止め難いが、神は時空を超越している。次元が異なるのである。

念には念を押して、三位から神を確認しているのである。
それはまるで、旧約時代に神がご自身のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主である」と自己紹介したように。私には、「よく聞け、俺がその神なんだぞ!」と神が念押しをしているように聞こえる。
なぜそこまで念を押すのかというと。それほど偶像が多く偽りの神が氾濫しているからである。

三位一体の神も、「父なる神として顕れた神も、子なる神としてイエスの内に顕れた神も、そして聖霊として信徒(皆さん)のもとに降りてきた神も、みな同じ神であり一体なんだぞ。」と念を押されているような気がする。
あなたに働いている神、あなたが祈っている神も、その神なのだ。

なんとなく自分が思い描いている神は、自分の勝手な思いであり、イエスが示された神とは違うんじゃないかと自信がなかったり、不安になったりしないように。私たちが向き合っているのは、同じ神であることを、一体であることを示されているのだ。それが大事なことなのである。本質は同じ愛なのだということ。

二次元・三次元的に考えるからバラバラであるように見える。神は時空を超越している、もとの元である。だから「一」でありえるのだ。そしてその本質は「愛」であるということ。だから、神は愛として顕れ、愛として働かれている。

聖霊はクリスチャンのみに与えられているとは限らない。仏教徒のもとに仏として顕れているかもしれないし、イスラム教徒のもとにアラーの神として顕れているかもしれない。自然の中にも表れ、自然を崇拝する土着民のもとにも現れているかもしれない。それらは、ある意味で象徴的であったり、一部分であったりするかもしれないが。彼らは神を感じているのである。

仏教においても、宇宙の中心には「大日如来」がおられる。そして、阿弥陀如来や薬師如来、観音さまも仏である。その観音さまは三十三の姿をもって現れるという。ほかにも多くの仏がいる。すべてがバラバラであるようだが、本質は慈悲であり、一つである。見方によって様々な表現をしているのだと思う。宇宙には貫かれた(普遍的な)一つの愛、一つの慈悲が存在するのだ。

ジョン・ヒックは宗教多元主義において、「神は多くの名前を持ち、多くの顔を持つ」と言われる。
そしてその本質は愛であり、一つであると強調している。だから世界は対立することなく、一つに和合し、調和する、平和になることができるのである。形式や言葉尻にとらわれる必要はない。我々が大切にしていた神は同じ神であり、「愛の神」であったというわけである。

人の思いが介入して、歪められたり、捏造されたりするから対立が生じるのである。それは神の思いではなく、自己中心な人の思いがそうさせている。人が愛せない限界を作り、越えられない壁を築いているのである。人間の欲望によって逸脱したものとなっているのである。

神は一つの愛から出発しているから、様々なところに現れ、愛し合い、一つにすることができるのである。親の愛が子供たちに宿り、愛し合い、家族が一つになるのと同じである。その愛が神なのである。

愛は一つにつながっているのである。もとなる神が愛であり一つであるからである。

〇 危機に直面した人類

なぜこんなに執拗に宗教について論じるのかというと、人はどこかで宗教に立ち返らねばならない。今のまま人の思い(欲望)を前面に押し出すと危険であると感じるからである。人間はどこかで過ちを犯しているのである。あるべき姿ではない。

一つ間違えば、核兵器によって世界を何度も滅ぼすことができるし、それでなくても、今のまま行くと環境破壊により、多くの生物が絶滅し、地球は汚染されて、人は住めなくなる。明るい未来などない。人類は危機に直面している。そのままでいいじゃないかと言うわけにはいかない。

常識的に見たなら、自らも滅んでしまうのだから、「核のボタン」など押すはずがない。だから、核は「力のバランス」をとる為であり、抑止力として働く。核は“使えない兵器”だと言うが、人間自身がおかしな存在になっている以上、人を道連れにして自分も死にたい。世界を滅ぼしたいという、とんでもない人間が現れ、指導者になるという可能性だってゼロではない。現に、「誰でもいいから殺してみたかった」とか言う身勝手な犯人が起こす事件が、近年頻発している。

人の心はなにかおかしいのである。あるべき姿、答えを見つけなくてはいけない。そのために、宗教をたずねて、神を求め、本当の愛を手にしなければ、人類に未来はない。

一神教を理由に他者を排斥しようとする者は、結局自分中心で、神を利用して自分の思い通りにしようとしているだけなのです。本当の神はそうではない。すべてを愛する、無償の愛の持ち主なのだ。
本当の神様は、すべての人の内に現れ、みんなの神となる。「愛」の神であるからすべてを包み込み一つにする。神が宿れば、愛し合うはずです。

一神教とは、自分の神だけが正しくて、他者を排斥するというものではなく。「一つの大きな愛」によって包み込むということなんだ。だから他者も受け入れる。もともと、一でも多でもなく、自己と他者の区別もなく、「愛」しかなかったはずである。愛しかないという意味での、一つの神なのだ。

〇 一は多であり、多は一である

「一」はただの一でしかないのかもしれない。しかし、その一が愛であるなら、「すべてを含む一」になりえるのである。

一でありながら多であり、多でありながら一になりえる。
多様であり無限に創造が広がるけれども、愛によって一つになりえる。
神は愛であるがゆえに、すべてを含む(すべてをかき抱く)一なのである。
すべては愛によって繋がっていて一つなのである。本質は常に一つであり、愛なのである。

我々は愛であり一つなのです。
だから、いかに多様な世界になろうとも、愛によって一つになりえるのである。
世界は一つに調和し、平和になりえるのである。多様でありながら平和に暮らすことができる。
愛は幸福をもたらすので、すべての人々は幸福になりえるのです。

神が愛であるなら、一は多であり、多は一である。

2026.3.5

※ ここでは、しつこいくらい「愛」「愛」と申し上げているが、それがよくわからないと言う人は、ぜひ、聖書にあるイエスの教えを学ぶか、仏教の慈悲の教えを学んで、実際に人を愛してみてほしい。そうすれば少しずつ「愛」というものがわかってくるだろう。言葉ではなく体験によって身につくもの。そして、悲しみも含めて愛を知る者は、神の心がわかる。神を知ることができるのである。

〇 世界一体の神

夢のような話をしてみよう。

もし、バチカンにおいてカトリックの教皇が、「聖霊はクリスチャンだけでなく、全ての人のもとに降りて行っている。神はキリスト教会だけの神でなく、世界をかき抱く神なのだ。」
だから、「父と、子と、世界に行き渡る聖霊の名において祈ろう。」
あるいは、「世界を愛する、地球を愛する、神の愛の名において祈ろう。」
「三位一体だけでなく、世界一体の神なのだ。」
そう宣言したならどうなるだろう。
宗教は一つになり、世界は平和に向けて大きく前進するだろう。

今、カトリック教会は、”ひらかれた教会”として変わりつつあります。『世界家族』という言葉を使い始めた。他宗教との対話も行われています。そして、「ラウダート・シ」を読むと、自然を愛し共生する。地球環境に対する意識も高いことがわかります。教皇が世界の宗教の和合を先導していって下されば嬉しい。

神を宿せば、人の心は少しずつ変わってゆく、愛で満たされてゆくのです。
案外、夢ではないかもしれません。