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祈りの中に生きる

「祈り」とは、どのようなものか。
神仏をどのようにとらえ、どのように対しているのか。
今日は祈りについて考えてみたいと思う。まずはそのベースとなる聖書の記述を上げてみよう。
〇 聖書の記述
ヨハネによる福音書 14章9-11節
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」
ルカによる福音書 17章20・21節
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
コリント人への第一の手紙 3章16節
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」
ヨハネ黙示録 21章3・4節
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」
以上の聖書の記述からわかることは、
神は霊であり、人は神を宿すべき「器」であり、「神の宮」(神の幕屋)であるということ。
神は人の内に宿り、人と共にあって、その目から涙をぬぐい取って下さる。神の国は人々の内にある。神は愛であるから、その愛が天国をもたらし、悲しみは過ぎ去ってゆくのだという。
ポイントは、神と共にあること、その愛に生きることである。愛が天国をもたらす。
故に、我々は神と共にある生活を目指す。具体的に言うと、祈りの生活である。「祈りの中に生きる」ということである。そうすることによって神の愛に生きることができる。
では、祈りの生活、祈る感覚とはどういったものなのだろう?
あらたまって祭壇の前に跪き、手を合わせて、十字架を仰ぎ見なくてはいけないのだろうか。あるいは阿弥陀仏や観音さまの仏像を前にして念仏やお経を唱えなくてはならないのだろうか。もちろん形から入ることも大事だし、それを好む人も多いだろう。
イエスもこのように祈りなさいと「主の祈り」と呼ばれる定型文を示されている。まずは、その通りに祈ることも一つの手である。手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えるところから始めてもいい。
ただ、その先どのように対話をし、どう関係を築いてゆけばいいのだろう。
「主の祈り」 マタイによる福音書6章9-13節
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
人は本来、どのように生きていたのだろう。
最初の人であるアダムとイブは、そんなことをしていただろうか。教会もなければ儀式もない。
普通に生活していて、神と共にあり、神を意識し、神と対話(霊の交わり)をし、ごく自然に神と人がともに過ごしていたのではないか。その感覚を取り戻せないものかと思ったりする。
エデンの園とは、ただ場所としてそういう豊かな土地があったというだけでなく、神がともにあった、愛があふれていたということなのだろう。だから、天国の本質は、あなた方の心の中、愛にあるのだと言うことなのです。
まずは「意識」することが大切かと思う。そして少しずつ神様のことを知ってゆくこと。愛を知れば神様と共にあり、神に心が通じるのではないかと思うのです。自然に一つになれる。

〇 書籍から学んだこと
柳宗悦と教皇フランシスコの言葉。それを解説してくださる若松英輔さんの本から紹介です。
若松さんの著作はいくつか読ませて頂いてまして、特に柳宗悦さんと教皇フランシスコに関する記述に感銘を受けました。
NHKブックス 『柳宗悦』~美を生きた宗教哲学者~
ラジオ講座「宗教の時間」柳宗悦のテキストが一冊の本になった。とてもよくまとめられていて、柳の思想と生涯を俯瞰することができる。若松さんの解説により、要点が深掘りされているところも良い。
現代人の多くは、人間の中に神がいると思っているかもしれません。柳はまったく異なる次元を切り開こうとしています。私たちこそが神の中に生きている、それが柳の実感でした。
生活のなかに祈りがあるのではない、祈りのなかに生活がある。
ふつう、祈りとは神に向かって自らのいたらなさを告白したり、願いごとをしたりすることを指します。しかし、経験を深めた求道者にとって祈りとは、自らは沈黙し、大いなるものの声に耳を澄ますことなのです。大いなるものにひらかれている存在のありよう自体が祈りになってくる。
人の生活のなかに神があるのではなく、神のなかに人の生活があるのです。
生活のなかで祈るよりも、祈りのなかで生活することのほうが容易なのかもしれない、と語ります。
神は私たちのすぐそば、私たち自身よりも近くにいる。
なぜ神仏は、人が求める前に恩寵を与えないのか。それは求めるという行為のなかにだけ見出せる何かがあるからです。悲しみや苦しみの経験からしか知ることのできないものがある。神仏はその意味を知り尽くしているから、悲しみや苦しみを排除するのではなく、それらを人とともにしようとするのです。若松さんは、ここに悲しみの答えを見つけられたのだと思います。
「悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。」と柳は言います。

最も深き所においては、悲しみの中から、悲しみとともに愛が現れるのです。
よりそう神がいだかれている悲しみは、愛しみであり、慈しみであるということです。
だから、悲しみを知るということは、神の愛に通じる道でもあるのです。
柳は「苦しみのさなかにも救いがある」とも言われます。
若松さんはカトリック教会の信徒さんでもあられます。教皇の話しも引用してみましょう。
『すべてのいのちを守るため』 教皇フランシスコ訪日講話集
2019年、カトリックの教皇フランシスコが来日して講演された。日本の青年たちに「祈り」について、次のように語られました。
「かつて、ある思慮深い霊的指導者が言いました。祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだと。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たして下さるでしょう。」
「本当の意味で充実して生きるためには、霊的な呼吸も覚える必要があります。祈りと黙想を通して、心の動きを通してわたしたちに語りかける神に、耳を傾けることができます。」
人は神によって育てられてゆくものだと思います。
だから、神の祈りの中、神の想いの中で生きることにより、神の愛(心)を相続してゆくことができるのかもしれません。それが最高の恵みです。だから私たちの祈りは、聞くこと、受けることから始まるのです。神とともに歩み、神の心と共感し、神とともに喜べる日が来ますように。
祈りは神から始まったものであり、人間はそれに呼応しているだけなのです。
一遍上人の言葉を借りれば、「念仏が念仏する」ということになります。仏の声が、内なる仏の声を呼び起こしているのでしょう。南無阿弥陀仏と唱えるのは「私」ではなく、内なる「仏」なのです。慈悲が慈悲を呼んでいるのです。

〇 祈りの中に生きるということ
実際は、どういった感覚なのか、いかなる境地に立つのか、それを掴んでみたい。
「祈りの中に生きている」という感覚がようやく少しわかるようになってきました。
祈りの主体は神であり。日々、神の想いの中に包まれているような気がします。それが時折、言葉となって私の内から湧き上がって来たり、愛する勇気が与えられたりします。いつも繋がっているという感覚があります。
私はそのような内に働く神、包み込んでくださる神を信じています。
神はおしゃべりではない。肉声をもって話すわけでもない。沈黙の中で、愛をもって包まれるのである。その愛の中に言葉や意志が含まれているのである。神の心を感じとる。神の言葉は心の動きの中に表れるのである。沈黙の中で気づくことがある。心と心の間で伝わるものがある。神は心をもって語られているのである。
祈りとは、神の心に語りかけ、心で感じとることです。答えは心の動きとなって返ってくるでしょう。教皇フランシスコはそのことを“霊的な呼吸”とおっしゃっていたように思います。
大自然の中に入ると、目に見えているものだけでなく、自然の霊気にも包み込まれる。
そして、その霊気は私の中にも入ってきて、私は自然と一体になり自然の一部になる。無言でも自然と語り合うことができる。そのような体験、感覚と似たようなところがある。
さらに付け加えると、神は自然と違いより根源的な存在であり、「愛」であるということ。すべてを生み出し、生かし、幸せをもたらす。自然界に美と調和と循環もたらすとともに、世界に平和をもたらす存在であるということです。
私に言葉はなくても、受け止める無心の心を用意しておけばいい。ただ感じ取る、聴けばいいということが分かりました。特にあらたまった祈りの儀式があったり形式があるわけでもなく、普段の生活自体が祈りの場となっているような気がします。
神さまに私という「場」を提供する。私のところで生きて下さる。愛を顕される。
私は祈りの中で、神の中で生きているという感じなのです。
「祈る」という行為や意識をせずとも、自然と神の祈りの中にいる。溶け込んでいるという感じ。無意識の中に神がともにある感じがする。
俊邦もまた(知的に障害があるので)、神という知識もなく、意識することもないかもしれないけれど、祈りの中に、神様の中に生きているのかもしれない。存在自身が神の顕れかもしれない。神にお願いするというよりも、すでに神の中にいるのかもしれない。

どうゆう状態・感覚が神を宿しているということなのか? 体感として知りたかった。
しかし、意識してつかめるような浅いものではなく、私の理解などほんのわずかなのだ。私という場を提供しながら、そこに愛が働くのを感じる。声が湧き上がって来る。思いが伝わってくる。そして時々、ビジョン・世界が広がるのである。輝く世界・霊性の開かれた世界、安堵する世界。その感覚をつかんでおけばいいのかな、と思ったりする。
結局のところ、私の意識などを越えて、祈っているつもりが、神の祈りの中で生きているのだなと思うのです。
祈りは、関係性の中で成り立っている。
私が祈るものだと思っていたら、実は神の祈りの中にいた。(神の祈りが先にあった)
神にも思いがあり願いがある。祈りの主体は神である。神が呼ばれるから私が応じて言葉にしているだけかもしれない。常に私たちは神の祈りの中に生きているのである。
神は私の中に生き、私は神の中に生きている。黙示録にある「神自ら人と共にいまして・・」という言葉のとおりである。
「“神”思う、故に我あり。」というのは、祈りの境地においても言えることなのでしょう。
神の想い(祈り)に生きるということです。
私が求めていた世界は、そうゆう世界なのかもしれない。
愛の中を生きている、愛の中で生かされている。
悲しみや苦しみも伴うけれど、それは神もともに味わっておられることであるし、それゆえ深く愛を感じることができる。(寄りそう者のみに通じる心である)悲しみや苦しみは過ぎ去ってゆく。愛を愛とするために悲しみや苦しみがあっただけである。永遠に残るのは愛であり神である。だから神と共にあるのならば・・・わたしもその中に生きているだろう。そういう霊性、霊のつながりを大切にしてゆこう。
深いものは深いところを通じてあらわれる。内なるものは内なるところを通じてあらわれる。
愛しみ(かなしみ)は、悲しみを通じてあらわれるものなのである。

つかみどころがない場合は、イエスという名を使ってもいいし、阿弥陀さまという名を使ってもいい。そこにある愛(慈悲)こそが本物であり、神なのである。
天国とは、なにもそのような物体があるのでも、遊園地(ドリームランドやネバーランド)のような場所があるのでもない。もちろん天界は、神の心の世界の広がりとして具現化されているだろうけれど、人による表現を超えたものである。本当の天国とは、愛と共にあること、神の祈りの世界、愛の中にあるということなのだ。
愛の国(天国)があったとしても、それを感じ取れるようになるには、私が愛というものを知らなければならないということである。愛を知った分だけ、天国を感じとることができるのである。自分に執着する人(自分にとどまる人)は、愛があっても天国があっても、わからないのである。愛の中で生きるために、愛を知るために、私たちは地上で多くの苦労や悲しみを通過するのである。愛には悲しみに寄り添うという性質があるからである。悲しみを知らなければ寄り添うことができない、癒すことができない。
イエスの十字架がなぜあのように輝かしく見えるのかを考えてみればいい。
悲しみの絶頂にありながら、愛に輝き、救いをもたらしている。
今の地上においてもそうである。苦しみや悲しみの中を通過していながらも、愛の中で感謝して生きている人はいるのである。人の気持ちがよくわかり、情に厚い人は、たいてい苦労して来られた方である。
祈りをする際、神は自分の内にあるということで、心の中(奥の奥)を探すようにして祈るというより、すでに神はあって、神の祈りの中に包まれているという感覚のもと、その声に耳を澄ます。その霊(愛)にふれる、という感じの方が近いような気がする。
神は内にあり、同時に包まれている。
私は神を宿す「器」であるとともに、神の愛が働くための「場」であり、神の中(神の祈りの中)に生きている。その神は「愛」である。これが神と私の祈りの世界である。
2026.3.28


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