余剰に光

「足るを知る」とは重要なことです。

NHK教育 ETV特集「それ、仏教かも。」~謎の寺 寶幢寺の実験~
京都 西陣地区に会社のビルのような建物があり、看板にカタカナで「ホウドウジ」と書かれている。真言密教のお寺である。僧院長は松波龍源さん。この不思議なお寺の取り組みを紹介する番組だった。その中で、農園をされている方のお話があり、それが興味深かった。

畑で仏教の教えを実践されている方で、元パンクロッカーの衣川晃さん(リトリート・ファーム 茅ヶ崎 はちいち農園)。かつてはロックでどんなに脚光を浴びても、家に帰ると虚無感に襲われていた。だが、農業には自己肯定感があると言う。今は土を耕さない不耕起栽培(自然農法)でお米や野菜作りをされている。多くの人が手伝いに来られるが、ノルマも役割もない。それぞれが自主的に参加されている。

「自分は、何を豊かだと思っているのか」それを俯瞰してもらいたいと言う。
野菜がたくさんあると「余剰」ができる。余った分はギフトとして人に与えることができる。仲間に作った野菜を渡したら喜んでくれる。それで、自分は渡したんだけど得ている感覚があった。それが、農業でつかんだ「豊かさ」なのだ。

ある日、その訳を仏教(龍源さん)から教わった。
豊かさを感じるためには、「足るを知る」ことが大切だ、とのことです。
自分の必要分が「足りた」と明確に分かれば、足りたところから上回った部分(すなわち余剰)はすべて“豊かさ”と認知することができる。これがすなわち「足るを知る」という言葉の真意です。
足るを知ると、誰かに渡す余剰ができる。それを渡して喜んでくれた時に心の豊かさを感じる。
他者に分けられる余剰をもって、それを自分から手放したときに豊かさが確定される。
という説明を受けた。「本当だ、それだ!」と思った。(衣川さんの感想)
真に豊かになるとはそういうことなのかもしれない。失ったはずなのに得ている。生かされている。

持てば持つほど豊かとは考えないのが“仏教”なんやね。(ナレーション)
ちょっと哲学的な教えである。本当の豊かさは、心の方にあるということか・・・

実際、自然界においては生き物たちは分をわきまえている。必要以上は求めない。そして、他者の為に与える存在として生きている。(利他的である)だから自然界はつながっており、循環している。
動物は腹いっぱいになったらそれ以上食べない。必要な分しか蓄えない。植物も自然な循環の中で育つようにできている。人が関与する野菜作りにおいてさえ、肥料のやり過ぎは逆効果であり、根腐れをおこす。適量というものがあるのだ。

人間はどうなのだろう。人間は「煩悩」を持つ生き物である。
底なしの欲望を持ち、あらゆる資源を使いまくり、富裕層は恐ろしいくらいの資産を抱え込んで、贅沢三昧の生活をしている。とんでもない犠牲の上に一個人の生活が成り立っていることもある。こんなことをしているのは人間だけである。もうちょっと違う生き方があるのではないかと思ったりする。夢の実現(ドリーム)だと言うが、それで本当に心は豊かなのだろうか?

〇 余剰とは

どこまでを必要分とし、どこからが余剰であると判断するか、そのラインを決めるのが難しそうだ。
人によって考えていることや役割(使命)も異なるからだ。

空也や一遍のように自分を捨て切っている人においては、どんどん与えるであろうし。そうでない人はちょびっと(少量)の場合もある。初めは与えること(失うこと)に対する恐怖心もあるだろう。しかし、心は豊かになる。永遠に残るのは目に見えないものの方である。

与えるということは素晴らしいことだ。しかし、強制されたり、自分が極端にマイナスになり、恨みが残り、逆に人に迷惑がかかるようになるのなら、必ずしも与えることがいいことだとは言い切れない。感謝して(喜んで)与えられる範囲に収めるべきかもしれない。

ただ、自分は神仏に守られている、大丈夫だと感じる人はできるのかもしれない。
与えたものは返って来る。自分は生かされる、そう信じている人もいる。
アッシジの聖フランシスコは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイによる福音書 6:26)というイエスの言葉を実践しておられた。
出家し、托鉢(乞食の生活)をして暮らしている人は、施し(お布施)のみで生きておられる。

神(仏)がいないと、愛(慈悲)がないと成立しない。信じていないとできない、やはり宗教である。

「足るを知る」のラインをどこに置くかは重要である(見極めが大切)。各自が自分に問わなくてはいけない。欲張りは慎むべきことなのかもしれない。世界の平和、・地球の幸せの為に欲張るのはいいことかもしれないが・・・自己中心で欲張りなのは問題だ。

西郷隆盛なんかは、国の為に何かをしたいという思いが強かったので、自分のことにおいては質素でほとんど関知しなかった。自分を甘やかさない、「与えること」が多かった人である。西郷どんは偉人である、比べるとしんどくなる。
でも、どんな小さき人であっても、なにか与えるもの(余剰)があるのではないだろうか。「存在自体」が他の為になっている場合もあります。一見小さな喜びであっても、その人にとっては大きな喜びかもしれません。

〇 ライフ・プランニング

自分の必要量というものを知るということは大切なことだと思う。

投資の世界においても、生活に必要なお金には手を付けず、余裕資金をもって行うというのが鉄則です。どんなに自信があっても投資したお金はリスク資産ですから、万が一にも家族を危険にさらすのは良くない。
必要量が分かっていれば、残りの余剰分は自由に使うことができる。自由な生き方ができる。
農業においては、残ったお野菜を分け与えることもできる。

ライフプランナーは人生において必要なお金を算出し、どのくらいを自由に使えるかをアドバイスする仕事である。質素倹約を旨として、計画的に人生を見通せる人は、それだけ自由度の高い生き方ができるということになります。余剰分を何に使うかはその人しだい。自分の為に使うか、あるいは世の為・人の為に使うか・・・

ちょっと頑張って自分の必要以上のことをして余剰を生み出す。その余剰を他者の為に生かす。
余剰分の生かし方を考える。これって素敵な生き方ではないだろうか。

定年退職後は余剰の時間も多くできる。老後資金を確保しているならば憂うる必要はない。その余った時間と、資金と、今まで培ってきて知識や経験を活かし、奉仕する生活(人に喜んでもらえる生活)をすればいい。時間や体力も貴重な資源だ。足るを知れば、早期退職して社会貢献活動に身を投じるのもいいことだ。「余剰」をどうするかをよく考えて、有効に活用するべきだ。それは真の意味で「豊か」になる為である。

「他者に分けられる余剰をもって、それを自分から手放したときに豊かさが確定される。」農家の衣川さんはそのように言っていた。『心の豊かさ』とはそういうところに生まれる。分け与えて、人々に喜んでいただく。それが自分にとっての心の糧となる。“幸せに生きる”秘訣なのかもしれない。

我々のように、定年退職を迎えようとしている人たちは、そういう時期に差し掛かっているのかもしれない。余剰を活用すべき時期、『第二の人生』が始まっているのだ。余剰が確定した時から第二の人生が始まっている。今までは自分が生きるために精一杯だったが、残りの時間は、くたびれてはいるけれど、何か少しでもお役に立てること、できることが残されているのではないかと思うのです。

私も、ささやかながら趣味で農園を開き、野菜作りをしている。家族で食べるには多すぎて少し余ることがあるので、それを障害者施設や子ども食堂、お寺さんなどに配るようにしている。すると、「ありがとう」と言って喜んでくれる。ちょっとだけ嬉しい気分になる。

〇 喜びと感謝の心をもって

心を磨き、喜べる範囲内で与える。(それなら聖人でなくてもできる)

近年、過分な献金をしたことが恨みとなって、元首相銃殺にまで至った、そういう痛ましい事件があった。
必要量を確保した上で、余剰分を自分の意志で提供する分には問題はない。しかし、必要であるものにまで踏み込まれて捧げることになった。自発的にではなく、精神的に追い込んだ状態で無理やり献金させるとなると問題が生じる。たとえそれが立派な目的(大義)のために使ったんだとしても恨みが残る。もし、その大義として掲げたことに“嘘”があったなら、その罪は大きいだろう。救いは愛にあるのだから、本当の愛がなかったらということである。

信仰を持つことは素晴らしいことではあるけれど、自立した信仰者となるのが望ましい。

余剰分であること。そしてその使い方においても、自分でよく考えて慎重に計画的に使わなくてはいけない。(無理やり人に強制されることではない)個人が自立して、自分でよく考えて判断できるようになることも大切である。人に依存していると、人に言われるがままに生きてゆくことになる。

組織に依存せず、無教会主義を貫いた内村鑑三はある意味立派な人である。

全てを捨て切った空也や一遍上人はすごい人たちだ。普通はなかなかそうはいかない。
人にはそれぞれ背負っている事情がある。家族や社会的責任を放棄して捨て切って生きるということは必ずしもいいことだとは言えない。

在家でも、自己の果たすべき責任をはたしながら、その上で余剰を有効に活用してゆくということも立派な生き方だと思う。人には何か他者より秀でていることがあり、余剰を生み出すことができる。それを他者に与え、心の豊かさを得るのである。ご近所を掃除したり、家の周りに花を飾ったりする。よく見かけるそういった行為も一つの例である。他者に向けたその余剰的活動は、人々や与えた本人の心も穏やかに満たすであろう。

足るを知らなければ(必要量をわきまえないと)家族を危険にさらすこともありえる。
また、一生懸命生きていても、どうしても足らなくなることもある。「保護」やサポートを受ける必要がある人もいる。だからそういう困っている人の為にも、余剰を人々に提供するというシステムや文化ができればいいなと思う。
税金や社会保障はそれに近いものだが、義務ではなく、自発的に与えてゆく文化(ボランティア文化)が根付いてゆくといいなと思う。さらに進んで宗教的な意味、魂の救いや幸福につながるものであればなお良い。自分の思いは儚く消えてしまうかもしれないが、神の愛は永遠だからである。

真の豊かさを知り、富める人がもっと積極的に余剰を提供するようになれば喜ばしいことである。
その基準となるスタート地点が、まず「足るを知る」ことから始まるのである。足るを知れば余剰が創出される。慎ましく生きることは、それだけで美徳なのだ。与えることができるというのは幸せなことだ。もし、贈る相手がいないのならば、遺産贈与でUnicefやUNHCRに託すのも一つの手である。

余剰をうまく生かすことによって、平準化された平和な、循環社会ができるのではないか、そのような夢のようなことを考えているのは私だけだろうか?

自然界はそれぞれ分を守り、余剰(最後には自分自身を全て捧げる)によって繋がり、バランスを取りながらうまく共存し、循環していっている。地球全体が輝く一つの命となっている。

私も小さいながらその中の一員となりたいものである。

〇 大切なのは心

以上のことを順を追ってチャートに表すと、こんな感じかな?

足るを知る(必要分を認識する) → 余剰が創出される → 何に使うか考える(自由) → 分け与える(自分から手放す) → 豊かさが確定する(心の豊かさ) → 幸福感・安堵感 → 世の中の平準化・共生・循環社会・平和

質素倹約(もったいないの精神)・慎ましい生活 → より多くの「余剰」を生み出す → 自由に使えるものが増える → 他者の幸せのために、福祉目的のために活用する → みんなが幸せになる(自分も心豊かに満足が得られる)

でも、ここで大事なのは、「心」である。心が問われることとなる。
その心に愛(慈悲)があるか、神(仏)が宿っているのかと言うことである。余剰ができても愛がなければ自分の為に使ってしまう(私腹を肥やす)。人の為に放出することができない。(手放すことができない)

だから、愛の教え・慈悲の教えが必要になってくる。単なる哲学でなく、宗教を求める理由がそこにある。
神(愛)を求め、仏(慈悲)を求め、それを自身の中に宿すということが必要になるのである。

神との関係を取り戻してこそ成し得ることなのです。

〇 余剰に光

「余剰」と言うと、言葉の意味としては“余りもの”とゆうことになるので印象が良くない。

旧約聖書の時代、神は供え物の中で、初ものと肥えた羊を好まれた。
全てを捧げよとは言わないが、その中から最初の一番いいものを捧げなさいと、その心を求められたのである。愛を育てたい神さまにとっては、人(自分)が優先されるのは良くない。必要分を確保するのはわかるが、あくまでも神を優先する。愛を先立ててゆくことが大切である。そうゆうお考えなのです。

神への捧げものと人への施しは違うのかもしれないが、余剰であっても「いいもの」を与えたい。その為に節約し、足るを知ろうとするのである。残りカスの酷いものを与えるというのではない。それでは愛が伴っていない。
順序は逆でも、他者の為に生きる、愛という本質を失っていなければいいのである。だから、余剰にも人を喜ばせることのできる光があるのではないかと思うのです。

あまり、「余剰」「余剰」と言い過ぎないほうがいい。与えたいという気持ちは先にあったのだから、余剰といっても初ものなのである。(謙遜の為、「余ったんです」と言うのです。)

大切なのは心だと思う。
いいものを残す。いいものを与える。そういう気持ちがあればいいのではないだろうか。
野菜でも人に与えるものは「いいもの」、家で食べるのは形の悪いB品。そんな風になっている。(ちょっと見栄も入っているが) 与えるために足るを知り、いいものを残そうとする。後だけれども先なのである。

そして、その心を育てるということは大切である。
心にもないようなことを、いきなり無理にやろうとすると、恨みや後悔が生じます。いい事だとわかっていてもなかなかできないのはその為です。だから、神様も歴史を通して人々に供え物を求めながら練習をさせていたのです。(神様ご自身は創造主なので物自体に執着はありません。あくまでも人の心を見ておられるのです。)私たちも普段から小さな募金に応じたり、ボランティアをしながら奉仕の心を育ててゆくことが大切です。

余剰とか余生とか言うと、どうもイメージが悪い。(余りものという感じ)

老後を「余生」と言ったら、くたびれた残り物のように感じる人もいるかもしれないが、本当は一番大切なところ、人生の総仕上げをする期間なのである。はじめにあった、最もやりたかったことをやるべき期間。最後に残るのは心なので心を尽くす時間でもあります。(何に心を尽くすのかということ)

一番いいものを最後に残しているかもしれない。余剰に光があるのかもしれない。それは、与えるために、愛となるためにそうしているのである。最初にあり、最後にあるものなのである。

人は最後に心だけを残し、命も捧げてゆくものなのです。命が光となって輝く時なのです。

〇 真に輝くとき

一番大切なものを捧げたいと願う思いがあれば、最後の時も惜しむことなく与えることができると思うのです。(願い続けてきたことなので、死の恐怖はそれほどでもない。)

与えたいと思う気持ち、捧げたいと思う気持ち、その気持ち(愛)を育んでゆくことが、人生の主要なテーマなのだと思うのです。

「老い」について・・・
最も若々しくきれいな状態で(老いることなく)、痛みもなく最期を迎えることができた方がいいのではないか。なぜ神は「老い」という期間を造られたのだろう。人が老いるのは、自己中心的な執着をそぎ落とすためではないだろうか。未練を無くすること。そして、最後には命を捨てる(与える)、失うことによって輝く。愛となりきる。

神にとって大切なのは肉体の若さよりも、心の美しさ、愛となりきることなのだろう。

時は流れてゆくのだから、肉体の痛みは消えてゆく(一瞬である)。愛に満たされた時、悲しみも過ぎ去ってゆく(忘れ去ってゆく)。永遠に残るのは心とそこに宿る愛である。

「病」は人の痛みを知る為である。悲しみを知らなければ人を愛することはできない(寄り添うことができない)。聖母マリアの「かなしみ」は、「愛しみ」に通じるのである。(古語では「愛しみ」を「かなしみ」と読む)

余剰が自分から手放したときに、心の豊かさとして確定するように、命が本当に輝く瞬間は、それを失う時(与える時)なのかもしれません。天寿を全うした命は、愛としてあの世で輝いているのではないでしょうか。

神は愛であり、人に対しても同じように愛となることを望まれたのです。(愛のパートナーなのですから)
最後は愛のもとで一つとなるのです。

2026.3.24