心の散歩道

~障害者の親が辿る心の道~

重度の障害者の親が辿る道、その心の道はどういったものであるか。

親は一生懸命に子を育てる。重度の障害がある場合は生涯にわたってその介護をにない、また自分の死後、親亡き後の心配までもしなくてはいけない。子どもの為に我を忘れて歩むのだが、親もまた幸せを求める一人の人間である。
時折、自分の人生を振り返る。その悲しみをどのように受け止め、どのように生きればいいのであろうか。

もちろん、その答えは人それぞれであり、誰もが同じ道を行くのではない。
天を呪い、恨みをもって生きる人もいるであろう。ひらけなおって残りの時間を切り替え、楽しく生きる努力をされる人もいるだろう。子供との時間を大切にし、思い出として残そうとされる方もいるであろう。どちらにしても、子供に障害がなければ・・・どうして、と考えると重く、悲しい気持ちになる。その気持ちを抱えながら、あなたは一生を幸せに生きることができるでしょうか?

一生の多くの時間を障害のある子供のために費やす。きれいごとでは済まない忍耐の連続が必要となります。そこで、どうやって心を整理し、どうやって自分の人生に価値を見いだすのか。ただ犠牲に終始する、悲しい人生に終わるのか・・・

なぜ、こんなことさえできないのだろうと絶望的になったり、普通では考えられないような行動や「こだわり」に振り回され、毎日ため息ばかりをつく。我々の人生は“ため息人生”だと言ったりしました。

そんな想いを通過し、なんとか苦悶しながら今までやって来ました。
私も還暦を過ぎ、子供は26歳になりました。これから先もあります。
そこで、何の解決策にもならないかもしれませんが、一つの例として、私の探しだした答えと、幸せへの道を、ここに記載して残してみようかと思うのです。少しでも皆様のお考えの足しになればと思います。

宗教的な内容も含まれていますので、うっとおしいと感じられる方は閉じていただければと思います。

○ パール・バックへの問い

パール・バックは、ノーベル文学賞を受賞された有名なアメリカの女流作家で、敬虔なクリスチャンであります。娘さんがフェニルケトン尿症(PKU)で知的に重い障害を負われ、その子育てについて『母よ嘆くなかれ』という本を書かれました。私も心動かされたとてもいい本です。

その冒頭、書き出しのあたりに記載された内容で、同じような障害を持つ子どもの親御さんから相談の手紙をたくさん頂いたことが書かれています。

質問の内容は大きく分けると二種類ありました。
一つは、このようなお子さんたちにどう対処すればいいかということであり、このことは何とかお答えできると言います。
私も自閉症についての知識や療育方法、栄養療法、福祉施設や様々な公的サービスの案内など、提供できる情報はお伝えしました。もっとも今の時代は、本屋さんに行けば自閉症の関連図書はいくらでもありますし、様々な療育法。治療法も出されています。ましてやネットで検索すればいくらでも情報が出てきます。親御さん同士の口コミの情報もあるでしょう。

しかし、もう一つの質問は、このようなお子さんを持った親が、どうしたらその悲しみに耐えてゆけるでしょうかということでした。これは本当に難しい問題です、とパール・バックは言われます。
「逃れることの出来ない悲しみを耐え忍ぶということは、何か独りで悟らなくてはならないことであるからです」というのです。

逃れることの出来ない悲しみと、どう向き合ってゆけばいいのだろう。
独り悟らねばならないことがあるとおっしゃっていました。
「悟らねばならぬこと」とは一体何なんだろう・・・

私はこの言葉がずっと頭にひっかかっていて、それを解くことが長年の課題となっていました。
実はこの答えを見つけることが、私の最後の仕事であると思っているのです。

※ パール・バックについての紹介は、こちらの記事をお読みください。

○ 福祉の仕事

私は、自分の子どもに障害があると知ってから、福祉の現場で働くことに決めました。
自分の子どもは一人で生きていくことはできない。生涯に渡ってたくさんの人々からの支援を必要としてゆくだろう。私が直接子供の事を見るのは限られている。
だから、元気な間は、自分の子ども以外の人たちの支援をしっかりとやっておこう。そうすれば将来、社会に対して希望を託すこともできるのではないかと思いました。(みっともない、打算的な考えではありましたが・・)

特に、自然の中で伸び伸びと子供を育てたかったので、施設でも、利用者さんを外に連れ出し、ハイキングや農園での野菜作りを指導しました。そして無農薬の野菜を食べさせたい。自然の循環の中で健康を取り戻し、自然と共生させたい、そう思っていました。季節の野菜を使って、様々なイベントも企画しました。みなさん喜んでくださいました。

福祉の仕事は、今で言うエッセンシャル・ワークで、欠くことの出来ない大切な仕事なのですが、まだまだ社会的な地位は低く、給料は高くはなりません。人気の職種というには遠いようです。何かの見返りや、報酬や、将来性を期待して長く勤められるような場所ではないのです。頑張れば利用者さんに感謝して頂けるとも限りません。支援していながら逆に害を与えられるようなことさえあります。では、どのような心構えで働けばいいのでしょう・・・

私なりの答えはズバリ、「愛すること自体に価値を見いだす」ということです。
一番輝いている時、充実している時は、何と言われようと実は支援しているその瞬間なのです。
人は愛に近づくとき、一番喜びを感じるのです。

「愛すれば光り輝く」これが私の大きな指針になりました。

60歳になるまで、20年近くやってきて、振り返って思うことは。人からの評価ではなく、無我夢中で、自分を忘れて、一生懸命に支援に打ち込んでいた時が一番楽しく、嬉しかったなと思います。
餅つき大会や芋煮会をやった日、片付けを終えて帰る時、車の中で一人「よし、よくやった」と泣いたこともありました。

○ 『情けは人の為ならず』

みなさんよくご存じの諺ですが、この解釈について今まで二通りの考えがありました。
一つは、情けをかける(同情する)ことは、その人を弱くするので、その人の為にならないという厳しいとらえ方。もう一つは、人に情けをかけることは、実はその人だけの為ではなく、めぐりめぐって自分のところに帰ってくる。自分の為になるのだよ、という理解です。(因果応報)
一般的には、この二つ目が正しいとされています。

しかし私は最近、ひょっとしたら、そのどちらも違うのではないかと思うようになりました。
めぐりめぐって自分のところに帰ってくるのを待つまでもなく、情けをかけている時、愛している瞬間、その時が一番輝いていて、すでに幸せなのではないかと思うようになったからです。
本当に愛しているのなら、自分に対する結果や見返りなど考える必要もないのです。
(子供に見返りを期待しているから、親は苦しくなるのです)

自分があって、自分に帰ってくることを期待しているようでは、本当の愛だとは言えません。
言い方はよくないですが、あとで受ける為の「取引」のようなものになってしまいます。愛に打算は必要ありません。

自分がなく、神の愛と一つになっている瞬間が一番純粋で幸せなのです。
あとのことは期待もしないし、考える必要もないのです。委ねていればいいのです。
期待している自分があるから苦しくなるのです。

情けをかけている(愛している)瞬間が、人にとっても、自分にとっても、神様にとっても幸せな時間なのです。それで十分です。

○ マザーテレサの思想

マザーテレサはどのようなお考えを持っておられたでしょう。
神様は愛のお方なので、悲しみとともにある。だから悲しむ人に寄り添うことは、そこにともにおられる神様をお慰めすることにもなるのだと考えておられたと思うのです。
よく共に歩むシスターに、「このお年寄りの体をいたわることは、イエス様の体をいたわることなのですよ」とおっしゃっていたそうです。

マザーは人々に奉仕する時、何か見返りがほしくてやっていたのではなく、自分が認められたくてやっていたのでもありません。自分などありません。ただ、愛である神様と一つになりたかったのだと思います。だから、ああして尽くしているその瞬間に喜びを感じ、平安な気持ちでおられたのです。

中心としているものが違う、目的や価値観、見ているところが違うのです。

さて、ここまでご覧になって、何かヒントは得られましたでしょうか?
神と一つになること、愛することに価値を置き、愛になり切ることを目標にして生きればいいのではないか、と漠然とそう思うのです。打算や見返りではなく、自分を無くし、愛すること自体に価値を置くということです。(容易なことではありませんが・・)

私は聖人ではありませんから、完全には自分はなくなりません。でもそういう目標をもてば自分のことはあきらめがつきやすく、少しは気が軽くなって前へ進めるのではないかと思うのです。

○ 御朱印集め

最近、私は暇があれば神社・仏閣にお参りに行くようにしています。
親にできる最後のことは(大きな声では言えませんが)「神頼み」ではないかと思うからです。残念ながら親は子どもより長生きすることはできません。準備すべきものは準備しますが、親亡き後、人との出会いや与えられる環境、支援の内容などについては神仏に委ねるしかありません。
それで、神社を巡るうちに「御朱印」を集めることにはまってしまい、今ではそれが一つの趣味になっています。

お寺で御朱印を頂いている時にふと気づいたのですが、ご本尊の祀られている本殿は「大悲殿」と呼ぶことが多いようで、御朱印帳の真ん中に大きく黒々と墨で「大悲殿」と書かれるのです。多くの本殿が大悲殿と名づけられています。
凡人である私にはなぜ「悲」なのかがわかりません。文字を分解すると“心に非ず”、穏やかではありません。出来れば縁起のいい「歓喜殿」とか「大幸殿」にした方がいいのではないかと思ったりもしました。

でも、考えてみますと、もし仏さまが慈愛に満ちた親だとするならば、苦しみ悩み悲しんでいる子供を見て笑うでしょうか、本人以上に悲しまれ、心配するのではないかということです。愛ゆえに悲しまれるのです。仏さまは私以上に悲しまれる「大悲の仏」なのです。
悲しみは、ともに悲しんで下さる悲しみによって癒されます。「大丈夫です、もう少し頑張ってみます」という風になります。きっと大悲殿には悲しみの涙(仏さまの慈愛の涙)がいっぱい充満しているのだろうなと思います。それはすなわち慈悲の心の証明なのです。

悲しみもまた愛です。愛になるとはそういうことなのです。愛は悲しみを伴います。(愛していなければ悲しくもなりません)「悲しみもまた貴し」です。

○ 柳宗悦について

柳宗悦さんは、1889年(明治22年)に生まれました、日本を代表する民藝家であり宗教思想家であります。その本は100年以上前に書かれたものですが、全く古いとは感じません。霊性が冴えわたっています。その宗教思想の本の中に、『南無阿弥陀仏』という著書があります。法然・親鸞・一遍を貫く浄土思想についてその真髄が書かれています。
その中で、柳氏は「悲しみ」について、以下のように記されました。

「悲」とは含みの多い言葉である。
二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることができないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しみは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。
悲しみは「慈(いつく)しみ」でありまた「愛(いとお)しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それゆえ慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み。更に「美し」という文字でさえ「かなし」と読んだ。
信仰は慈しみに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。

柳宗悦の3冊の宗教思想の本

『宗教とその真理』
『神について』
『南無阿弥陀仏』

これらの本は、日本が誇るべき宗教思想の至宝であり、金字塔だと思います。

この三冊はどれも素晴らしいのですが、特に私は個人的に『神について』という第二集が好きです。
(座右の書にしています)七つの書簡から構成されていて、徹頭徹尾、「神様は愛である」ということが熱く書き記されています。

柳氏は、キリスト教的な神学の基礎をしっかりと身につけた上で、東洋の思想、特に法然・親鸞・一遍による浄土思想について詳しく述べ、東西宗教思想の融合を果たそうとされました。
その後、民藝の世界に入り、芸術、美の世界でも民衆の救いと浄土を求めてゆかれました。

柳宗悦は、とっくの昔に亡くなられているのですが、私にとっては貴い宗教の先生です。

○ キリスト教と浄土思想

キリスト教と浄土思想は似ています。
私の家は、代々浄土真宗(興正寺派)なのですが、縁あってキリスト教についても学んだことがあります。どちらも他力で、救い主によるとりなしによって救われます。

浄土思想における救い
浄土宗によると、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるだけで、どんな人でも成仏できると言われています。
「浄土三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)には、法蔵菩薩が修行を積んで覚者になる際に四十八の「願」を立てられたと書かれています。その中でも特に第十八願は「念仏往生の願」と呼ばれ、凡夫であっても念仏を称えるという易行のみで成仏し、極楽浄土へと救われてゆくという。法蔵菩薩はその願が成就しなければ「正覚をとらじ」と誓われた。そして阿弥陀仏となられたことにより、この本願は成就しているのである。

浄土教はこの「仏願に乗じる」というのがその教えであり、他力救済の道筋なのです。

では「南無阿弥陀仏」とはどういう意味なのでしょう。
「南無」とは帰依しますということ、「阿弥陀仏」は慈悲そのものであると言われている仏さまの名前です。念仏とは、自分を捨てて、仏さまの慈愛に生きてゆきますという誓いの言葉なのです。
だから、これを称えた瞬間から浄土に行けるということになっています。(道理としては通ります)

一方、キリスト教では、
イエスの十字架による代理贖罪(人類の罪を背負って十字架にかかる)を信じることにより救われます。
イエスは「自分の思いではなく、御心のままに」「御手に委ねます」と祈られました。
イエスは悲しみの絶頂にある時でさえも自分を顧みることなく、私心を捨て、神の愛と一つになられました。「彼らを赦したまえ・・」と言ったのです。だから復活の道が開けました。十字架上にありながらも生きる道が開かれたのです。それはすべての人の救済の道が開けたということです。
十字架上のイエスの姿は、神様の御姿そのものです。神の愛の顕現であるとしか言いようがありません。
キリスト教は愛の宗教です。イエスの愛と一つになって生きてゆきましょうということです。

仏教は、大悲の心(慈悲)を仰ぎ見て、信仰を立てます。
キリスト教は、十字架上のイエスの赦しと愛を仰ぎ見て、信仰を誓います。
どちらもその奥に、悲しみの神、愛の神を見つめ、そこに帰り着こうとしているのです。

共通点は、自己中心である自分を捨てる(私心を無くする)こと、とりなして下さる十字架上のイエスの赦し、阿弥陀仏の本願を信じること、神および御仏にすべてを委ねること、神の愛、仏の慈悲と一つになること、そうすれば極楽浄土、神の国へ行けるということなのです。

仏教では神とは言いませんが、究極の実在を「無」とか「空」とかいう言葉で表現されています。
仏陀の教えによると、無には「四無量心」という心があり、それは「慈」「悲」「喜」「捨」の四つで、その中でも「慈悲」が最も大切なものであり、その慈悲の心を顕現させたものが阿弥陀仏であるとのことです。阿弥陀仏と言えばその真実は「慈悲」なのです。
「南無阿弥陀仏」とは、慈悲の心に立ち帰りますということなのです。

東洋では、唯一神なるものを感じていたとしてもあえてそれを語りません。神は言葉にできないものだと知っているからです。もし、それぞれが絶対神を掲げて自己主張し始めたら、「俺の神」「我が神」「私の神」というふうに、張り合って奪い合いが生じ、分裂や闘争の原因になってしまいます。
東洋には相手のことを気遣う優しさ(謙虚さ)があります。だからそれぞれの神や仏を認め合い、あえて絶対とは言いません。私の住んでいる大阪市にある天王寺区などは、たくさんの宗派の違うお寺さんが軒を連ねており、仲良くご近所づきあいをされています。

慈悲には、悲しみに寄り添う東洋的な優しさが含まれています。

○ ジョン・ヒックの宗教多元主義

ジョン・ヒックと言えば、「宗教多元主義」を説き、世界の宗教の融合をはたそうとされたことで有名です。宗教が原因で世界に分裂と闘争が生じ、戦争にまで発展してきた過去の歴史に心を痛めたのです。
対話と相互理解の道を開こうとしました。198090年代に世界中に反響をもたらしました。

結局のところ、人々はみな同じ真理の山を登ろうとしており、頂に立つ神は名前は違っても同じものを仰いでいるのだと考えたのです。人に個性があるように、人々の住む地域や文化の差により、宗教にも特色があり、それぞれに合った違った道を歩んでいくのです。しかし、真に道を究めてゆけば、頂の上で同じ神のもとで相まみえることになるでしょうと言うのです。

彼が全ての宗教の共通点としてあげたことは、
どの宗教においても「自我中心から究極の実在(神)中心への自己変革」を説いているという点です。
キリスト教ではイエスの愛によって生まれ変わることを救いとしています。浄土教では阿弥陀仏の慈悲によって往生すると言います。往生とは浄土にて生まれ変わるという意味です。

1997年、龍谷大学仏教文化研究所のはからいにより、京都において歴史上はじめて、浄土教とキリスト教の宗教対話を実現させたシンポジウムが開かれました。題して『比較を越えて』という本にもなって残っています。副題は、宗教多元主義と宗教的真理、阿弥陀仏とキリスト、浄土と神の国。とても興味深い内容でした。私はこのシンポジウムを記録した本を、ようやく古本で見つけ購入しました。

ただ、ここで共通して難しいとされることは、自分を中心としない、自分を捨てるということ。それは容易なことではではないということなのです。

○ 自分を捨てること

親鸞上人が説いた『歎異抄』における悪人正機説は、みなさんご存知のことと思います。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というあの教えです。
でも、私はこの話を聞いて何か腑に落ちず、理解しきれないところがありました。人間そう簡単に変われるものではなく、善人は善人、悪人はやっぱり悪人のまま。善人の方が先に救われて当然ではないか・・・と思っていたのです。

でも、仏教を勉強していてようやくわかったことがあります。(私なりの解釈かもしれませんが)
成仏するためには、仏に帰依しなくてはなりません。それが救いの条件です。「帰依」するとは自分を捨てるということです。真に慈悲の心をもつためには、いったんは自分を捨てなくてはなりません。自己中心のままでは仏(慈悲)と一つになることはできません。となると、どちらが自分を捨てやすいかということになります。

善人は、大方の人は自分が正しいと思っています。自分は良心的に生きているという仮面をかぶっているのです。でも突き詰めると自分を中心としていて、自分の為に良心的にふるまっているだけなのです。正しいと思っているから(善人ぶっているから)、自分を否定できず、自分から逃れられません。
表面だけ帰依しているようなふりをしているだけなのです。自分のままです。(死に切っていないのです)自分を中心として愛しているのは、すべて自分に帰することなので本当の愛ではないのです。

しかし悪人は、罪の自覚がある人は、「自分はダメな人間だ」「生まれ変わりたい」と自分を完全に否定し、自分を捨て去ろうとします。だから自分を残すことなく、心から仏に帰依したいと思うことができるのです。自分が残りません。自分のことは考えず、仏の心(慈悲)を中心に生きますので、仏になり切って、成仏できるのです。

一遍上人や空也が言われた「捨ててこそ・・」とはこういうことなのだなと思いました。
イエスは「死なんとするものは生きる」と言いました。

「自分」があると苦しい。
自分を捨てざるを得ないようなところに追い込まれている私たち障害者の親は、潔く自分のことはあきらめて、愛に生きればいいのです。そうすれば新しい自分、愛によって生きる新しい自分を発見することでしょう。

真に慈悲の心に立ち帰る為には、自分を捨てねばなりません。己を捨て去ることが「南無」です。
中心を神様の愛に、御仏の慈悲の心に挿げ替えるのです。
それは本来の姿に立ち帰ることであり、人は元々、自分で自分を生んだのではなく、愛から生まれてきたものです。だから中心に自分があるのはおかしい。愛に生きるのが当然の姿なのです。

二元の世界では、自分があるから比較し、恨みが残り、分裂や闘争が生じるのです。捨てること、あきらめることもまた愛なのだということを知らねばなりません。

極論を言うと、「自分」があるから戦争が起こるのです。
国であったとしても自分の延長線上です、自己中心であれば自分のテリトリーの内に対してはいい顔をしますが、外に対しては対立せざるを得ません。それでも民主的にお互いを認め合い譲歩する心があればまだいいのですが、特に自分を絶対視した場合には大きな問題となります。(覇権争いとなる)
一元である神に帰り、神の愛によって全てを包み込むことが平和への道です。

障害者の親は、既に自分に関する多くのことを捨て、あきらめています。
子どもの為に、愛に生きざるを得ないような立場に追い詰められています。悲しみを抱え、大悲の神はすぐそばにいるのです。祈れば通じます。ただ、愛に生きればいいのです。神を知れば、神(愛)と一つになれる喜びを知ることでしょう。

○ 愛から来たものは、愛に生き、愛に帰る。

自分から発したものは、自分へと帰結します。孤独なさびしい世界です。
しかし、神を中心として、神から発したものは、神(愛)に帰ります。すべてを包み込んで神の愛の懐へと帰ってゆきます。神の愛の中にはみんながいるのです。

我々は、自分で自分を生んだわけではありません。気がついたら存在していたのです。
(自分のものではないにもかかわらず)自分を所有し、自分を中心とするのは勝手なふるまいです。
私たちは神様の愛から生まれてきたものです。だから、神(愛)を中心にして、愛に生きるのが本然の姿なのです。神の愛に生きれば、神の愛に帰結します。そこが浄土であり、神の国なのです。
単純な真理です。

愛することに生きればいいわけだから、障害のあるなしは関係ありません。
むしろ、自然な形で、自分を捨て、見返りを求めず、愛に生きざるを得ないようになっています。
だから余計なことを考えないで、ただ一生懸命に愛すればいいのです。

自分については、人の痛みや苦しみを知るために「自分」があるのだと、そのくらいに思っているのがちょうどいいようです。

自分に限界が来たときは、自分の存在の根本にある神の愛に立ち帰り、神の愛にゆだね、その愛になり切ればいい。愛に生きる時、神は共にあり、平安はすぐそこにあります。気が付けば我々は浄土・神の国と呼ばれる癒しの世界にいることでしょう。

○ まとめ

私は、どちらかというと地味でパッとしない凡人です。もし信仰と言えるようなものがあるとするなら、「神は愛である」ということを信じている、それだけなのかもしれません。
愛(神)から生まれてきたものは、愛に生き、故郷である愛の世界(愛の懐)に帰ってゆくのです。
愛に生きるとは、自分を捨てて神様を中心とした神様の愛に生きるということです。
一生において得るべきものは、「愛」だけなのです。あの世に持っていけるのはそれだけです。

仏教では、仏さまは慈悲であり、救いは「南無阿弥陀仏」にあります。
悲しみを知る人は、それだけ深く人を愛することができるのです。

ここまでかなり宗教的な話をしてしまいました。
特定の宗教宗派にはなるべく偏らないように気遣ったつもりですが、どうしても個人的な見解が混じってしまいます。個人の信仰としてその辺りはご容赦くださいますように。(どこかに勧誘するとか、強要するつもりはありませんので・・)

そして答えは、ぜひご自身の心に問い直して見つけて下さればと思います。
神様がおられるとするならば、皆様の心の奥底に住んでおられるのであり、寄り添い、包み込んでいるものなのですから。神様は内生し、すべてを包み込むものなのです。
「無」であったとしても、愛のある無、慈悲の心を持つ無なのです。

故、遠藤周作氏は、神様は一人一人に寄り添ってくださる「同伴者」であると言われます。

時折、私は広々とした大和川の土手沿いを散歩しながら考えます。
いつも通る同じ道、同じ風景でも、日によっては日が差していたり、さざ波が立っていたり、雲の動きも違っていて、何かを伝えんが為なのか表情を持っています。
私がどうとらえるかということで、霊の交わりは成立します。祈って語り掛けてみればいいのです。

言葉というのは心の中に与えられ、湧き上がってくるものなのだと思います。
祈りに応えて下さるように、様々な経験を通過しながら私たちは「知る」ようになるのです。

パール・バックの言う「悟る」とはこういうことなのかもしれません。
さあ、そろそろ散歩を終えて、お家に帰りましょう。

長くなりました。皆様の歩みの先に、愛と幸福がありますように。

2024.3.1